男山・女山と森家にまつわるはなし

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男山(おんやま)・女山(めんやま)にまつわるはなし
 香南地区の沢田のあたりから西を見ると、大野小学校の向こうに昔話の絵本に出てくるような、三角形の二つの山が目に入ります。北側の高い方を「男山(おんやま)」、南側の低い方を「女山(めんやま)」と呼び、二つを合わせて「男女山(おとめやま)」とも言われています。
 この男女山は、約100万~200万年前、火山活動が行われていた頃、地中深くを通っていたマグマの通路からマグマが地上に噴出し、それが固まって残ったもので、女山の頂上付近では、このマグマが固まって石垣のように六角形にひび割れた「女山の玄武岩」(町指定天然記念物)を見ることができます。
 男山・女山は、その特徴的な形からか、古くから霊験あらたかな山として神聖視されてきました。円宗寺にある吉祥寺も、江戸時代以前は男山の東麓にあったといわれますし、元禄4年(1691)刊行の『作陽誌』にも、男山・女山それぞれの山腹には権現社が祀られており、不思議な現象が多くあったと書かれています。その一つとして、寛永11年(1634)7月7日、津山藩初代藩主・森忠政が京都で急死した日の夜、男山・女山が突然、山が崩れるのではないかと思うほど大きく振動したといいます。
 しかし、よく見ると何の変わりもなかったのですが、しばらくすると京都から訃報が届き、この現象が森忠政の死去を暗示するものであったのだと言われたようです。そして延宝2年(1674)2月に、津山藩二代藩主・森長継の長子・忠継が、38歳の若さで亡くなった時にも同じ現象が起こったと記されています。

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 また、面白い伝説としては、昔、大男が土の入ったもっこをかついでこの辺りを通りがかり、疲れたので桝形山(香々美)に腰を下ろして休憩し、再び歩こうと思って立ち上がり、もっこを持ち上げると、もっこのひもが切れ、その時こぼれた土の山が男山・女山になった、という話もあり、昔の人々も色々な想像を巡らせながら、面白おかしく親しんでいた様子がわかります。

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 大正時代には、和田に新田六太郎という大変信仰心の篤い人物がいました。六太郎は、家財を失うほど四国や小豆島の八十八か所巡礼を幾度も参ったといい、地域の人々から「六大師様」と尊敬されていました。六太郎は、大正3年(1914)に男山・女山の中間に男女山万福寺を創建、大正5年に「浄信」と名を改め、男女山八十八か所を開きました。各札所には、近辺の信者によって石仏が寄進され、現在でも地域の人々を中心に、手厚く信仰されています。
 このように地質学的にも大きな価値を持ち、古くから信仰の対象として敬われ、数々の伝説を持つ男山・女山は、「仲むつまじき男女山~」と、大野小学校の校歌にも歌われ、麓を貫通する「男女山トンネル」の名の由来にもなっており、現在でも大野地区のシンボルとして地域の人々に親しまれています。『鏡野歴史ものがたり』鏡野町境域員会2019発行