真経に住んだ津山藩主の一族(鏡野町)

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 真経部落の北端、山を背にして南西に開けた小高い丘に「屋敷の段」という地名がある。その昔、慶長八年(1603)美作の領主となった森忠政公の第二子重政君が若き生涯を終えた屋敷跡である。
 その南方約二百米ほどの所に「春谷口」という地名がある。この東の山腹三十米ほど上がった地点に御墓所(町指定史跡昭和五十四年四月一日付)があり、御墓畝と呼ばれている。重政君を火葬に付した場所であるともいわれる。
 森家先代実録によると、
「重政君御名大膳亮(だいぜんのすけ)、文禄ニ癸巳年四月二十三日濃州金山に生まれ給う。元和四戌午年六月五日作州苫南郡真経村にて御年二十六歳にして卒し給う。同所槇尾畝に葬る。墓印に柊の木一株あり。その後久米郡南里方村栃社山誕生寺に改装す。-瑞応院殿光禄桂林俊芳大禅定門

 重政君の御母堂は山内源左衛門の養女にて香々美という。川中島より引越し作州かが美の溝尾に居住す。故に皆人呼んで香々美という家女なり。万治三庚子年五月二十五日作州にて死す。八十九歳。同所法源山宗永寺に葬す。―清泰院栄厳寿永大姉
 清泰山栄厳寺にも位牌があり。清泰山松寿院に墓碑あり。分骨して寺内に納む。
 重政君御子御女子一人あり。御名於捨。慶長十六辛亥年苫南郡真経村にて生まれ給う。妙願寺二代目浄公室にならせられる。延宝二甲寅年十月一日卒。御年六十四歳。津山神王山渓花院に葬す。
―清光院殿慈沢性潤大師 影像を妙願寺後堂に安置す。」という。

 現在「屋敷」の南端を南北に通っている町道の南側に馬場があって、馬のけいこをしていたという。
 大谷橋から約二百米ほど奥に入った所に「溝の尾」がある。重政君の御母堂香々美殿が住まわれ、重政君の日常を視護されていたのではないかと言われている。(文:『香北ふるさとの伝承』より抜粋)(2021年8月29日・9月4日撮影)

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墓地から望む部落                この茂みを上る

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案内してくださった宇佐美さん、ここで子どもの頃よく遊んでいたそうです。

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重政君を火葬に付した場所といわれている。

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阿弥陀堂のすぐ傍にある墓石は、地域の人がお宮にあったものを集めてここでお祀りしているという。

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 春谷口といわれる、当地の東の山腹を三〇㍍程登ると、「お墓畝」と呼ばれる所があります。そこは、津山藩主森忠政の第二子、重政の墓所跡と伝えられています。また、一説には火葬に付した所ともいわれています。
「森家先代実録」によると、重政は、一五九三年濃州金山(岐阜県兼山町)に生まれ、一六一八年に真経村で、二五年の短い生涯を終えています。
 重政の母は、香々美といい、現在の大谷橋から二〇〇㍍程奥に入った、溝の尾という所に住み、病身の重政を視護していました。
 重政には、一六一一年真経村で生まれた、於捨(オステ)という娘があり、於捨は後に現在の津山市戸川町にある妙願寺二代目浄公室になっています。
 重政は、いったんお墓畝に埋葬されましたが、無苦往生の寺として知られる誕生寺に改葬され、誕生寺御影堂南奥に墓石があります。(文:現地案内板より)(2021年8月29日撮影)


誕生寺御影堂南奥ににある重政君の墓石(右)

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重政君の墓石(右)               観音堂に祀られている位牌

真経に住んだ津山藩主の一族
『鏡野歴史ものがたり』より

 香北地区の真経(さねつね)の北端、香々美川左岸にひらけた集落の背にある丘陵上に、「森大膳亮重政(もりだいぜんのすけしげまさ)の墓」(町指定文化財)とよばれる場所があります。
 森大膳亮重政は、津山藩初代藩主森忠政の長男として文禄二年(1593)、当時忠政が治めていた美濃国(現在の岐阜県)金山で生まれました。第二子という説もありますが、正しくは長男で、側室の子であったことと病弱であったため、相続権はなく、嫡子(ちゃくし)忠広の庶兄として育てられたようです。
 忠政が津山藩主として美作へ来た際には真経に屋敷を構え居住していました。おそらく病身のため藩の任務に就くことが困難で、真経の静かな地で療養をしていたのでしょう。そして、元和四年(1618)にこの地で亡くなります。二六歳の若さでした。森家の家史である『森家先代実録』には「作州苫南部真経村にて御年二十六歳にして卒し給う。同所槇尾畝に葬る。」と記録があります。
 現在真経にある森大膳亮重政の墓は経一.五~三m、その高さ五〇cm程度の石垣を巡らせた土壇(どだん)が残り、その上には近年子孫の方によって墓碑が建てられています。土壇は墓が作られた当時のものかどうかは不明ですが、亡骸(なきがら)を火葬に付した場所であるともいわれています。
 重政の墓から約二〇〇m北に「屋敷の段」とよばれるなだらかな見晴らしのよい場所があります。ここが重政の屋敷があった場所と伝えられています。
 また、「森家先代実録」には、重政の母親もこの地に住んでおり「溝尾に移住す」とあります。現在の大谷橋から約二〇〇m奥に「溝の尾」という所があり、ここに母親の屋敷があったと思われます。母親はお竹という名でしたが、この地に住んだことから「香々美」とよばれていたようです。
 重政の墓は、のちに久米南町の誕生寺に改葬されており、境内にニmを超える大きな五輪塔が建てられ供養されています。
 重政の義弟で嫡子であった忠広も寛永一〇年(1633)、三〇歳の若さで父忠政よりも早く亡くなり、忠政の外孫、長継が跡を継いで二代藩主となります。(文:鏡野町教育委員会2019年発行『鏡野歴史ものがたり』より)


鏡野風土記
瑞応院殿

 城主の二男として生れながら、作北の当時はなおさら草深かったであろう香北(こうほく)の地で、その短い生涯を終えたと伝えられる。森大膳重政の物語を聞き得たまま記そう。
 大膳の少年期から青年期にかけては、輿関ヶ原の戦、大阪の陣と続く、輿亡あわただしい戦乱の時代を経て、やがて徳川の威の下に諸大名がしゅう伏せられていく時代の大きな転換に、若い重政にとって心中の抵抗に快々とした日々であったようだ。時に狩に出かけたおり、百姓が無礼を働いたというかどで、鉄砲で撃ち殺すという事件がおきた。狼狽したお城の重役達は、幕府を恐れ、お家の安泰のため、乱心者ということにしてこの山奥に押し込めたのだそうだ。又一説には、業病ゆえに隔離されたとも伝えられている・・・。
 ともあれ、事件の起きた所が、お城から丑寅(うしとら)の方向に当たっていたので、お城に災厄、凶悪など不吉なことの起こるのをおさえる鬼門よけという意味もあってか、表鬼門の方角にちっ居させられることになり、真経の地が選ばれたのだ。
 この地での生活の有様はつまびらかではない。ただこの哀れな息子につき添って来た母と、わずかの供の者があったという。まことにわびしい生活が想像されるが、母と子が一緒に暮せたのが喜びであり、慰めであったであろう。
 住居の跡は、部落から一段と高くなった所にあって、後ろに山をひかえた、かなりの広さをもっていたもののようだ。現在は田となっていて「屋敷」、「屋敷の段」という地名となってのこっている。この屋敷のうしろの山の中腹にみられる古い墓は、供の人達のものであろうと伝えられている。
「屋敷」から四、五百米離れた山際に、小高く盛土をしたところに祠(ほこら)が建てられて、大膳重政を祀ってある。部落の人はここを「宮さん」と呼んでおり、火葬にしたあとに作られたと言われる。こお宮さんのしたの山すそ一帯を「ヤソウ場」という地名で呼ばれており、火葬場のその語りの転じたものではないかと思われる。その一角にお堂と石塔一基が安置されている。話ではこの石塔は室町時代から戦国時代の豪族、貴族の墓塔となった宝塔の形式をひくものだそうであって、森家の菩提寺である、誕生寺に、瑞応院殿として本葬され、分骨されて、又ここにも葬られたものだと伝えられている。
 春秋の彼岸には、部落の人達がこの堂にこもって、不遇のうちに、若くして生涯をとじた若殿の霊を慰める回向が、今もひきつがれて行われているのである。(文:岡山県鏡野町学校教育研修所遍『鏡野風土記』昭和56年6月10日発行より)