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取材記事内を検索ワード「門」で検索した結果,738件の記事が見つかりました。

物見に伝わる千利休の伝説

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利休屋敷
  上加茂村物見のツエガ谷に在り廣さ260坪、口碑に傳ふ千利休此の地に生れ茶道に長ず。天正9年10月羽柴秀吉因州征伐の時中國より美作に入り高山城を攻め物見を越えて因幡に向ふ。利休この時出でて、供奉せしものなりと。里人古來利休の遺風を慕ひ正月元朝挽茶を用うるを例とす。又利休の異名を物草太郎と曰ひしは物見の一字を冒せしものとなりと。屋敷の一隅に利休の末裔八兵衛の墓あり、墓側に周圍二丈に餘る槻の巨樹あり。明和4年八兵衛が天満神社に記念奉納のため栽植せしものにして八兵衛槻と曰へり。樹は大正2年神社合祀の際伐採せり。(文『苫田郡誌』より抜粋)


千八兵衛の墓
 上加茂村大字物見に在り、自然石にして高さ三尺輻一尺餘刻して圓壽奉冷信士と有り。口碑に傅ふ八兵衛は千利休の末裔にして安永7年5月25日此の地に歿せしものなりと。
(文『苫田郡誌』より抜粋)

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恵日山 興隆寺(鏡野町)

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 当山は養老三年(719)の開基、本尊の大日如来像は行基菩薩の作と伝えられます。眉間の白毫より恵日の光明が虚空に遍く満ちゆくのを見て、恵日山と号します。
 天文二十二年(1553)十月二十六日、飛び火の災により消失。永禄二年(1559)三月二十一日、中興光阿上人により再建されました。
 また慶長九年(1604)美作国主・森忠政公より、松平公、明治に至るまでの間、毎年寺領二十石を賜る祈願所でもありました。
 現在も毎月二十八日をご縁日として、息災延命と福寿無量をご祈願致しております。
 また子安大師の由緒ある尊像を安置し、子育ての祈願所としても親しまれております。
(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)(2020年6月7日撮影)

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東宮殿下御成婚記念橋(西寺町)

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 泰安寺(西寺町)前に架かる東宮殿下御成婚 記念橋を撮影してきました。吉井川支流の「藺田川」(小田中~南新座)に架かる歩行者専用橋です。
 この橋は、大正13年(1924年)に皇太子(昭和天皇)の御成婚を祝して、当時の南新座青年団が発起人となり、近隣の方々の寄附によって造られたそうです。側には東宮殿下御成婚 記念橋」という記念の石碑があり、橋の竣工のために、寄附した方々や世話人の名前が刻んでありました。その世話人の中に、夏木マリさんの、父方の曽祖父中島啓次郎さんの名前があります。(写真:2017年2月4日撮影)

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山田純造生家(美作市海田)

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 山田純造さんの生家をお尋ねしてきました。現在は子孫で現役医師の山田信夫さん(中島病院で名誉院長)に色々とお聞きしてきました。築200年以上経ったこの家は色々と直しているとのことですが、柱や梁は昔のままで風情がありました。また、お庭の庭木は綺麗に手入れしてあり、伝統を守ることは大変な努力がいることを改めて感じました。


 山田家は、海田(現在の美作市)で代々医業を営んできた家系です。医家として6代目にあたる純造は、大坂にあった華岡流の医塾合水堂で学び、天然痘予防の牛痘種痘の普及にも尽力しました。山田家の医院「仙巌堂」には、治療を求める人たちが雲が湧くように集まったといいます。
2016年12月3日山田純造生誕180周年記念の講演より)

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2020長法寺のアジサイの花(井口)

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 2020年6月17日の津山市井口にある長法寺のアジサイの花です。
今年のアジサイのイベントは新型コロナウイルスの影響で中止になりましたが、それでも続々とお客様がアジサイの花を見学に来られていました。まだこれから次々と咲き誇ると思いますので是非どうぞ。
あじさい祭【長法寺】2010年6月19日のイベントの様子)

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石敢當(林田)

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 石敢當(いしがんとう、いしがんどう、せきかんとう、せっかんとう)と呼ばれます。辞書によれば「災いを除くため、橋・門・路上の要所などに建てた石碑」とあります。中国・朝鮮を経て日本に伝来したもので、主に九州地方に多く見られます。一説には「石」は人名、「敢闘」は向かうところ敵がないという意味とも言われています。(文:城東マップより)(2020年6月4日撮影)

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津山城「四足門」

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 四足門は、大手の二の丸の入口にある門です。門は、廃城後の明治7年に中山神社(津山市一宮)の神門として移築されました。絵図と比べると、屋根が瓦葺から檜皮葺に変わっていますが、現在でも見ることのできる数少ない津山城の建物の一つです。
 絵図や現在の神門の調査から、薬医門であることや、扉のついていない城門であったこと、柱の位置関係が絵図と重なることが分かりました。発堀調査では、門の礎石の根石を確認しています。

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野介代の石碑

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 いつも通る度に気になっていたのでここらで一度調べてみようと思い、昔の写真を拾い出してきました。(撮影2014年7月25日)この石碑には「奉供羪大峯三拾三度為現當二世菩提碑 寶法印敬白」(たぶん?)と書かれている。今年になって知人にお聞きしたら、下記のお返事が来ました。
「供養のための石碑のようです。三十三の文字が見え調べてみました。
三十三とは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)に説かれる、観世音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来している。」とのことでした。解明でき良かった。

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知原公園(東一宮)

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 知原公園(津山市東一宮1303)は、グリーンヒルズに近い住宅街の一角にありますが、周りには田んぼもまだある静かな環境の公園です。シーソーやブランコなどの遊具もあり子どもと遊ぶには良いところです。また、鳥居公園が近くにあります。(2020年3月25日撮影)

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キリシタン灯篭

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 ヨーロッパにつたえられた津山
 17世紀のはじめ、美作にも、青い目の宣教師が、いくたびかおとずれ、キリスト教を布教しています。そのころの津山の様子が、宣教師によって、次のようにヨーロッパに伝えられています。
「森忠政は、領内にキリシタンはいないと幕府に報告して、キリスト教を黙認している。城下町の近くには、美しい墓地があって、キリシタンは、そこに行って、祈りをささげている。墓地の中央には、高さが3メートルをこえる、すばらしい十字架ががある・・・。」(『日本キリシタン宗門史』より)

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