2023 千光寺のしだれ桜
前日侍ジャパンが優勝して世界一になり、日本中がまだ興奮冷めやらぬ2023年3月23日の千光寺のしだれ桜の様子です。(2009年3月28日の様子)
雨の降る中でしたが、雨に打たれ境内の中に佇むしだれ桜の姿もまたいいかも?と思いながら撮ってきました。また、境内には様々な椿の花が美しく咲いていました。
前日侍ジャパンが優勝して世界一になり、日本中がまだ興奮冷めやらぬ2023年3月23日の千光寺のしだれ桜の様子です。(2009年3月28日の様子)
雨の降る中でしたが、雨に打たれ境内の中に佇むしだれ桜の姿もまたいいかも?と思いながら撮ってきました。また、境内には様々な椿の花が美しく咲いていました。
2022年9月15日小中原観音堂(加茂郷88ヶ所霊場第87番札所)を地元にお住いの木元林造さんに案内して頂きました。この観音堂は、曹洞宗 成興寺の境内にあり、旧道沿いにあります。すぐ近くには、大庄屋の中西邸跡や、万燈山古墳、文殊堂(加茂郷88ヶ所霊場第1番札所)があります。
また、三角屋根の百々温泉 めぐみ荘があり、おススメです。
当山は、天長年間(824~)に、弘法大師御開創の霊域と伝えられたお寺です。
万治3年(1660)、当山中興快英上人の手によって再建され、仏師を乞い本尊を建立しました。胎内には、大師御製作の塑仏頭面を納めています。
地元の丹波六郎兵衛を願主として再興され、その折、木像の弘法大師像を金剛寺(現愛染寺)より寄進されました。以後延享年間(1744~)に、宥善上人により当山は中興されました。
近年、本堂・客殿・庫裏を再建し、現在に至っています。
(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年10月2日撮影)
秘史 後南朝の仙洞御所の地、高根について「如意輪観音寺跡」貞和3年の石造(宝塔)
酒本武都主氏の親切な道案内により、その幻を求めて歩きました。翌日の令和3年6月4日地区に古い物が多くあることを知ったことにより、せめて石造物の文字だけでも正しく読んでみようと、独り調査に入った。この日私的には大変なものを確認できた。
地元では先人達が、「高仁山長福寺境内 如意輪観音寺跡」と言われる場所には宝塔(仮)があり、それには(判読)「貞和三丁亥天〇〇(1347) 願主 万門」と彫られていることに気づいた。
これは町内で重要文化財指定されている
間 山 四角宝塔康永3年(1344)
一本松 如意経塔延文6年(1361)
東光寺 油地蔵 康暦2年(1380)県指定
この中では二番目のものである。手水鉢には昔は髙仁であったとも奉納者が示していた。
かつて秘史を語ってきた人達は以上のことを知っていたのでしょうか。詳しくは後日の調査を待つことにして地元区長へ中間報告することとした。参考文献:『博士 川勝政太郎著 石造美術入門・同 石造美術の旅』より(文:勝央町文化財保護委員会 委員長 赤木耕三)
第四番 清瀧山 善性院 榮徳寺
当山は、天平年間の八世紀半ば、行基菩薩による開山です。
行基は、元境内近くにある清流に心を引かれ、瀧の側に草庵を結びました。行基草庵の仏堂と弘法大師創建と合わせて、清瀧山榮徳寺と号されました。その後、火災により二回境内を変更しました。
また、境内に隣接する清瀧に沿って険しい七曲りを登ると奥の院観音堂がありました。十一面観音菩薩は行基の作と伝えられていますが、昭和五十八年に、その観音堂も現本堂山側に移転されました。(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年9月19日撮影)
生光院霊屋(みたまや)
創建時の名称、美作国主初代森忠政がその義母生光院のために建立されました霊屋で、正面須弥壇には、生光院が生前崇拝の弥陀如来立像と生光院の位牌とを安置されました。施工者は大阪の番匠勝右衛門、当時の住職は第12世深誉。
生光院は柴田勝家の女で、初め塙備中守直政に嫁し、直政死後原隠岐守に再嫁せられ天正11年(1583)隠岐守戦死により生光院はその子長満(4歳)の成長を護るうち天正18年(1590)秀吉は長満が勝家の外孫であるの故を以て、之を殺した。生光院は悲しみのあまり全く志を失い越前大野木に隠棲するようになり大野木氏ともいわれます。
森忠政は、塙直政の養子となる約束がありましたが、直政死のためそのままとなり慶長8年(1603)美作国主として津山に来られました。慶長15年(1610)大野木氏が越前に存世のことを聞かれ、大いに懌び、家臣川村左介を特派して大野木氏を津山に迎え250石を給するなどして配慮至らざるなく、常には家臣富田久右衛門を傅として諸般世話せしめられました。
真経部落の北端、山を背にして南西に開けた小高い丘に「屋敷の段」という地名がある。その昔、慶長八年(1603)美作の領主となった森忠政公の第二子重政君が若き生涯を終えた屋敷跡である。
その南方約二百米ほどの所に「春谷口」という地名がある。この東の山腹三十米ほど上がった地点に御墓所(町指定史跡昭和五十四年四月一日付)があり、御墓畝と呼ばれている。重政君を火葬に付した場所であるともいわれる。
森家先代実録によると、
「重政君御名大膳亮(だいぜんのすけ)、文禄ニ癸巳年四月二十三日濃州金山に生まれ給う。元和四戌午年六月五日作州苫南郡真経村にて御年二十六歳にして卒し給う。同所槇尾畝に葬る。墓印に柊の木一株あり。その後久米郡南里方村栃社山誕生寺に改装す。-瑞応院殿光禄桂林俊芳大禅定門
重政君の御母堂は山内源左衛門の養女にて香々美という。川中島より引越し作州かが美の溝尾に居住す。故に皆人呼んで香々美という家女なり。万治三庚子年五月二十五日作州にて死す。八十九歳。同所法源山宗永寺に葬す。―清泰院栄厳寿永大姉
清泰山栄厳寺にも位牌があり。清泰山松寿院に墓碑あり。分骨して寺内に納む。
重政君御子御女子一人あり。御名於捨。慶長十六辛亥年苫南郡真経村にて生まれ給う。妙願寺二代目浄公室にならせられる。延宝二甲寅年十月一日卒。御年六十四歳。津山神王山渓花院に葬す。
―清光院殿慈沢性潤大師 影像を妙願寺後堂に安置す。」という。
鳥羽山萬福寺 天台宗 植月北鳥羽野
境内に観音堂(慶長3年観音寺住職円慶中輿)、大日堂(宇堂の上)、地蔵堂、阿弥陀堂、弁財天祠、薬師堂があった。明治22年11月出火し、今は寺は無く観音堂、大日堂その他が再建されている。
萬福寺縁起古文に、往古役行者小角が回国途中霊験によりこの地に弁財天を鎮座せしとされ、また観世音菩薩の由来は、京都鳥羽に置いて行基が菩薩六尊を新造中に、美作のこの地に飛行し立座した霊夢を、聖武帝と行基が同時に御告があった・・神亀3年(726)創建したと記録され、また再度の火災により大破のみぎり、京都鳥家の長者霊夢を見て、この地に下り再興した。森候の祈願所でもあり、馬継所の桜の馬場の伝承もある。
観音堂・・・美作三十三観音霊場六番札所、本尊は聖観音立像(148㌢)行基作、足裏に義経と記され、源義経の守り本尊として伝承される。
萬福寺は元亀元年(1570)慈眼大師により再興されたが、寛文の頃に無住となり観音堂の兼務となった、大日堂の見正院に坊籍を許可でず、宇堂は荒廃し、火災でついに廃寺となる。(文:『勝央町誌』より転載)(2021年3月15日・2020年9月10日・2012年9月3日撮影)
○概要
・所在地 津山市加茂町物見136-1番地
・本堂 行基菩薩 ※元は、加茂町毎見稽行山に鎮座
・現本堂 延亨3年(1746)2月建立
・棟梁 智頭郡真貝野村の住人、内海利左エ門
・聖観音 千手観音(四国足摺山金剛福寺)より奉納
熊谷直実(1141-1207。平安末期~鎌倉)寄進と伝えられる。
・加茂郷八十八ヵ所27番札所(旧36番)
・石碑 亨保7年(1722)、因幡の住人、石工・吉田与六エ門 建立
延亨3年(1746)、福善寺・阿闍梨本了法師 供養
昔から百万遍供養(数珠回し)が行われ、物見部落の各戸を回って供養が行われていた。終戦後一時中止したが復活し、今は毎年8月吉日に物見町内会が物見老人会に委託して行われている。供養は、福善寺・新城住職が行う。
なお、近年、津山市観光協会北支部が「加茂郷八十八ヵ所巡礼」を春と秋に行うので、接待も行っている。
2020年9月27日「出雲街道を歩こう会」に参加してきました。
出雲街道とは、播磨の国 姫路を発し、出雲の国 松江に至る約215kmの古道を言う。また、終点は松江を過ぎ、出雲大社とも言われている。
大和朝廷が、武力で全国平定をしたのに対し、出雲は神話に登場するが如く、平和狸に国譲りが行われ、朝廷より優遇されて、鉄の産出も始まり、街道は繁栄してきました。街道は人、物、文化を運ぶ役を果たし、その重要性は五街道(東海、中仙、甲州、日光、奥州)に匹敵し、同等の街道として発展しました。その後の街道も時代と共に、道筋は変遷、消失を繰り返していますが、現存し得いる道で合理性が高く、最も古い道を採用しています。今回は「出雲街道(東部Ⅱ)」よりの特別企画第一弾として、勝間田宿の会の主催で、3区を歩こう会を開催いたします。(文:案内資料より)