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二上山 両山寺(美咲町)

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高野山真言宗準別格本山両山寺
 当、両山寺は、人皇四十三代元明天皇の御宇和銅七年(714)開祖泰澄法師が観音の霊夢により草創されし霊刹で御本尊は、正観世音菩薩にして尊像は天竺毘首羯摩の作なり。山は二峯併立し恰かも金胎両部を表示し、一岳両峯真に天地自然の妙容なり、故に山を二上山と呼び、寺を両山寺と号す。開山の砌りは、真言、天台の二道場にして二十有余坊の僧坊、七堂伽藍を有し近国の名刹として頗る聞こえしがいつしか天台宗衰え真言一宗となり、現在は本坊一寺となり他は字名として残るにとどまり栄枯盛衰の跡を物語るにすぎない。養老年中(717~723)唐土の不空三蔵当山の本尊を加持し、国家安泰を志願し五智尊像を五重塔に納められるが、永禄八年(1565)尼子氏と毛利氏の奸戈により堂塔伽藍を焼失せり。此の時、本尊正観世音菩薩天野ヶ原に飛行士光明を放ちて赫々たるを朱雀天皇の御苗流僧正良尊大和尚直に尊像を守護し奉って、再び此の地に堂宇を建立し本尊を安置す今の本尊即ち是れなり。
なお、元禄元年(1688)十一月朔日、当国の大守長成公より万代不易の寄附顕然たり。而して当山、其境幽遽にして頂嶺の遠望は両眼象山恰かも平地の如く一度山頂に立てば雄大の気自ら迫り無二の霊場と言う可きである。また当山の鎮守護法善神は、仏法擁護、伽藍安全の守護神で、建治元年(1275)七月僧定乗護法の詑宣を得て、毎年陽暦八月十四日祭式(県指定重要無形民俗文化財)を修め天下泰平、万民快楽の祈念を行っている。 合掌(文:境内の案内板より)

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美作の大庄屋巡り「中島家」

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中島家 中島多右衛門 西北条郡香々美中村 松平藩
大庄屋まで
 香々美中村中島氏は、延享4年(1747)大庄屋岸三郎左衛門が職務を召し上げられたことにより、寛永2年(1749)姻戚関係のあった一宮村中島家から、多右衛門が香々美触の大庄屋に任命されて岸氏の屋敷に入り、跡を受け継いだ。
大庄屋として
 ペリー再来航のとき、中島多右衛門は、農夫77人を率いて江戸に赴いた。また、私塾「休嫌学舎」を開き、塾の指導者として鞍懸寅二郎を招いた。寅二郎は後に津山藩に登用され、藩論・尊皇攘夷を主導した。

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美作の大庄屋巡り「岸家」

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岸家 岸新兵衛 西北条郡香々美中村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 岸氏の先祖は久米南町下籾にある竜王山城主、岸備前守氏秀であるという。氏秀は伯耆尾高城主山名氏重の二男で天文年間に尼子氏に属し城を築いたが、元禄元年浦上宗景は尼子氏の衰退を見て、竜王山城を攻撃し氏秀は戦死し落城した。後裔の新兵衛が森藩の大庄屋に任命された。
大庄屋として
 津山城主天守閣の主柱に用いた桂の巨材は、大町村の宗重から岸新兵衛によって切り出されたと伝えられているが、父三郎左衛門が寄進したともいわれる。切り株から成長した柱が現存する。新兵衛は藩命を受け慶安元年(1648)布原台地の開拓、それに伴う用水路作りに貢献した。また、伯耆往来の宿駅に着手し、円通寺の客殿を寄進したといわれている。延享4年(1747)三郎左衛門は年貢米の不足から多額の負債を負い大庄屋を免ぜられた。

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美作の大庄屋巡り「植月家 植月六郎右衛門」

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 植月家 植月六郎右衛門 久米南条郡一方村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 植月氏は、美作菅家七党の一つである。家譜によれば、その子孫が宇喜多氏に仕えて一方村を与えられ、神南備山北麓に居を構えた。これが一方村植月氏の祖である。新右衛門が森藩の大庄屋を勤め、その後明治まで続いた。
大庄屋として
 植月新右衛門は承応2年(1653)の一方村の「山上り」や、延宝7年(1679)の皿川改修工事による広い新田作りに功績があった。皿川改修には下弓削村大庄屋河原善右衛門とともに尽力した。六郎右衛門は元禄一揆の記録を残し、山中一揆が起ると、120名の人夫を連れ、弓や鉄砲などを携帯して、鎮圧に出動する準備をした。澄江は、慶応2年(1866)長州戦争に郷夫隊総取締として従軍した。

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美作の大庄屋巡り「大倉家 大倉正左衛門 浜田藩(鶴田藩)」

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大倉家 大倉正左衛門 久米北条郡和田北村 浜田藩(鶴田藩) 
大庄屋まで 
 家伝によれば、遠祖は後白河法皇の近臣の一人平資行という。彼は『平家物語』に出ている鹿ヶ谷事件で美作に配流され、一族は大倉を名乗ったという。神楽尾城主大蔵甚兵衛はこの流れをくむといわれている。 弘化2年(1845)から、大倉正左衛門が南組の大庄屋を勤めた。
大庄屋として
 美作に移った浜田藩は、慶応3年鶴田藩に名を変えた。藩主をはじめ4千人ともいわれる家臣とその家族の生活を支えた領民は大きな負担を強いられた。正左衛門たちは、藩への献金や借金の交渉と返済などの処理に廃藩後まで尽力した。慶応4年、新たに編入される村を早急に決定してほしい旨を幕府に嘆願し、美作5郡の95か村が鶴田藩に編入された。大倉家には大量の文書が残されている。
所在地
 古くから垪和郷の信仰を集めた一ノ宮八幡神社がある。

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美作の大庄屋巡り「福山家 浜田藩(鶴田藩)」

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福山家 福山元太郎 久米北上郡里公文中村 浜田藩(鶴田藩)
大庄屋まで
 福山家の出自は明らかでない。享保2年(1717)高津神社の棟札に庄屋福山彦兵衛、天明5年(1785)中庄屋彦兵衛、寛政2年(1790)彦兵衛、文化4年(1807)中庄屋周蔵の名があり、中庄屋、庄屋を勤めていたことがわかる。天保7年(1836)久米北条郡17か村が石見国浜田藩の飛地になったとき、福山元太郎が和田北村の富田伊兵衛とともに大庄屋に任命された。
大庄屋として 
 第2次長州戦争で敗れ、城をすてた浜田藩は、慶応3年(1867)藩主が福山家に移り、鶴田藩と藩名を改めた。明治4年に桑下に西御殿ができるまで福山家は藩主の邸宅であった。

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大山みちを歩こう会(第6区)

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大山みちを歩こう会(第6区)立石~延助間(9.7㎞ 実質距離 10.5㎞)
 令和元年5月19日(日)、主催:出雲街道 勝山宿の会
■大山みちとは
現在の真庭市久世を中心として、東西には五街道(東海、中仙、甲州、日光、奥州)に匹敵する、重要な出雲街道(姫路~松江)があります。出雲街道は雲州と大和朝廷や京大阪を結ぶ、幹線となっていました。また南北には、古くより「大山みち」と呼ばれた古道があり、備中の国分寺跡を発し、足守より粟井温泉~掛畑~千升乢~加茂市場~尾原~鰻出~鹿出~落合~久世~三坂峠~禾津~藤森~延助~内海乢を経て、御机~鍵掛峠~伯耆大山寺に通ずる道があります。陰陽を結ぶ代表的な路線であり、人、物、牛馬、文化を運び、また、農民一揆の道でもあり、大山詣での信仰の道でもありました。現在ではその殆どは、一般道路に併合吸収されて昔の姿は止めていません。

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美作の大庄屋巡り「安藤家 安藤善右兵衛(挙母藩)」

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安藤家 安藤善右兵衛(挙母藩)久米北条郡坪井下村
大庄屋まで
 安藤氏は、周防の大内義隆の家臣であった。義隆が陶晴賢によって滅ばされた後、天正元年(1573)香々美庄、のち河本村(鏡野町)に移住し、寛文3年(1663)子孫の太郎兵衛が坪井村に帰農したという。家譜によると天明年間、善右兵衛の祖父勘兵衛が挙母藩の大庄屋に任命された。
大庄屋として
 善右兵衛(善一)は、天保8年(1837)挙母藩の事務総掛を務めた後、大庄屋職を勤めている。慶応2年(1866)改政一揆のとき、津山に向う百姓に食物を与え説得して帰村させた。兄の鹿左衛門は救済などに献金し武士にとりたてられている。
美作国挙母藩領
 元禄15年(1702)内藤領(安中のち挙母=豊田市)となった久米北条郡内の12か村5千石余が、明治4年(1871)まで、169年間にわたって内藤家の領地であった。これを統括する陣屋は坪井下村におかれた。

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美作の大庄屋巡り「田口家 田口三郎兵衛」

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田口家 田口三郎兵衛 東北条郡籾山村 森藩
大庄屋まで
 田口家の氏租は、田口光政といわれ、北高田城(横野村)に居城し、山名時氏に属して、美作の平定に功労があったといわれる。後裔は尼子氏に従い、永禄の頃毛利氏の属し、神楽尾城を守っていた。天正7年(1579)の落城後、宇喜多氏に属した時もあった。
 田口三郎兵衛が森藩の大庄屋に任命され、籾山、勝部、志戸部、大田、川崎を合せて所管した。
大庄屋として
 三郎兵衛は、森長継が家督相続をした時、有元平左衛門、中島九郎兵衛、鈴木九右衛門らと共に祝賀のため出府している。
 津山市上田邑の田口山引乗寺は光政により創建され、田口家の菩提寺として庇護された。

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餝摩津斉七塚・鶴亀神社(鶴坂)

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 鶴坂の上り口にあり、寺城出身の力士の塚である。弘化4年(1847)の大坂番付に記載されている。本名は太田斉七といい、墓が寺城池の下にある。斉七塚のすぐ上は墓地になっており、疣神社、六体地蔵、供養碑がある。さらに進むと鶴坂の頂上付近の中国自動車道を横断する陸橋を渡るとすぐ左の小祠が鶴亀神社である。そばに三星城の家臣鶴之丞が妹亀の仇を討とうとしたが返り討ちに遭ったという哀話の説明板がある。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月23日撮影)

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