津山で一番早い夏祭り「八頭(やかみ)神社」
▲八頭(やかみ)神社の夏祭りが2011年7月3日(日)にありました。この夏祭りは津山市の中で一番早い夏祭りだそうです。ちなみに秋祭りも一番早いそうですよ。ここを皮切りに津山の夏祭りが始まります。
八頭神社は新職人町・桶屋町・新魚町・吹屋町の四町内でお祀りしているそうです。お祭りは毎年焼き鳥をしたり賑やかに執り行われているようです。近年お御輿もあるのだそうですが、修復も中々前に進まないそうです。
▲八頭(やかみ)神社の夏祭りが2011年7月3日(日)にありました。この夏祭りは津山市の中で一番早い夏祭りだそうです。ちなみに秋祭りも一番早いそうですよ。ここを皮切りに津山の夏祭りが始まります。
八頭神社は新職人町・桶屋町・新魚町・吹屋町の四町内でお祀りしているそうです。お祭りは毎年焼き鳥をしたり賑やかに執り行われているようです。近年お御輿もあるのだそうですが、修復も中々前に進まないそうです。
勝北民芸資料館(2011年6月22日取材)は勝北公民館の上高進さんに大変お世話になりました。
▲写真の庭の石のモニュメントは正面のモニュメントから後方のモニュメントの穴に風が吹きぬけると言われているそうです。
資料館のねらい
勝北の北にそびえる那岐連峰は、美しい景観を誇っているが、その裾野に住む人々は水不足に悩み、広戸風におびえてくらしてきた。
ため池をつくり、木背で家を守り、養蚕で家計を支えて、先人たちはこの郷土を築いてきた。
これらの労苦をしのばせる生活民具、貴重な文化遺産を後世に伝えるとともに、文化財保護心を育てるため、勝北町民俗資料館に保存展示することにした。(勝北町歴史民俗資料館パンフレットより)
嘉吉元年(1441)、山名教清が美作国の守護に任ぜられた際に築城されたものと伝えられています。その後、天正17年(1589)8月、野火によって焼け廃城になるまでの148年間、山名、赤松、浦上、尼子、宇喜多、毛利の各氏が、美作国の制覇をかけて激しい攻防を繰り広げられた舞台ともなりました。
城は岩屋山の山頂に本丸を置き、本丸を中心に三方向に曲輪を配した複雑な梯郭式の山城で、本丸南に馬場、西南には石橋上や椿ヶ峪砦を設け、更に西には小分城を築き防備を固めていました。本丸東には二の丸を置き、その南には三の丸を配しています。東の谷の固めとしては、12本の竪堀を設けています。大手南斜面に見られる大小20箇所以上の防備のための郭は、美作地方では他に類をみないものです。他に井戸、慈悲門寺跡なども残っています。(2011.5.4)津山の文化財より
構の城(2011.4.16貞考母子の碑より望む)
津山市院庄字構にあり、一町四方が城域となっている。はじめ院庄城といったが築城の年代は明らかではない。
正平15年(1360)、山名時氏とその子師義は兵4千5百騎を率いて赤松貞範の属城を攻めようとして、その将小池中書、福依八右衛門を篠向城(真庭郡久世町大庭)に、淀井丹波守、武田刑部左衛門を高田城(真庭郡勝山町)に向わせ、自分は精兵をもって院庄城を囲んだ。城兵は僅かに六百余りであったので、城将江見八郎兵衛景信および住井吉行、渡辺刑部少輔等は敗死して城は落ちた。村の東南に墓趾があり、この地を吉行といっている。正平17年6月(1362)、山名時氏はまた兵5千を率いて院庄に入り、近国の諸将を招いて備前備中の諸国に向かった。
その後康正2年(1455)、城将山名掃部頭の上洛の虚に乗じて赤松氏の将中村五郎左衛門が来攻した。掃部頭の子は戦に敗れ城を棄てて伯耆に逃れた。次いで山名氏が大挙来襲し互いに勝敗があって、戦の止むことがなかったという。
元亀2年(1571)、宇喜多氏の将花房職秀が来攻して杉山為国と戦ったが為国は戦死し、職秀の将難波信明もまた戦没した。その墓趾は院庄の西方西町にある。
これより後院庄城を改めて構城とし宇喜多氏は片山秀胤にこれを与えた。天正11年(1583)6月、毛利の兵が構城を攻略したので宇喜多の将花房職之兵を率いて構城を囲み奪い返した。秀家は芦田馬之丞およびその子作内に命じてこれを守らせた。
宇喜多氏が亡んで、慶長8年森氏が入封するに及んで構城を修築しようとして1年余り院庄に留まったが事情があって中止し、今の津山に築城した。寛永15年(1638)、その城跡を壊して大部分を農地とした。
注 天正年間、作備線(現在の国鉄姫新線)の敷設工事のため土砂が掘り採られて、今は本丸跡の一部を残して農地となった。現在その一角に貞考母子の碑が建っている。(昭和54年10月23日発行:院庄誌より)
▲篠山城跡(2011.4.10)
早春の佐良山の東面に位置する山々は、可憐な白い花弁を一杯に広げた純白の「辛夷」の花で彩られます。その中でも一番美しい群生を見せる場所として、「篠山」があげられます。
佐良山には「佐良山三座」と称される山々があります。「嵯峨山」「神南備山」そしてこの「篠山」です。古歌に「美作や久米のさら山さらさらに わが名は立てじ萬代までに」と謡われた「久米のさら山」を巡って、諸説が飛び交いいまだ決着を見ていない佐良山を取り巻く秀峰をいつしか「佐良山三座」と呼ぶようになりました。
ちなみに嵯峨山には、これぞ「久米のさら山」であるという「佐良山碑」(市文化財)が津山藩により1816年に建立されていますが、それはそれとして佐良山の人たちはこの美しい山々をこだわりなく誇りに思っていると思われます。
▲津山駅では雛めぐり期間中(2011年3月5・6日)、臨時列車「JRひなまつり列車」が運行されました。新見駅=岩山駅=中国勝山駅=美作千代駅=津山駅。(10:42発のお内裏様号と14:15着のお内裏様号)華麗な踊り連がお出迎えとお見送りをしてくださいました。
塩手池の礫岩と化石(2010.12.25)
塩手池周辺には幅5m長さ100mにわたり基盤となる帯黒色の礫岩層(れきがん)がみられます。この層には海生の貝化石などが多く含まれています。これは今から約2000万年前の地質時代新第3期中新世に、津山盆地が古瀬戸内海と呼ばれる海だったためです。その内海には海生の貝が生息していただけではなく、パレオパラドキシアやヒゲクジラなどが泳ぎまわっていました。現在、礫岩塊群が露出する一帯は公園として整備されています。(津山市市場161-1番地)
記念物(天然記念物)【文2008津山市教育委員会発行:津山市の文化財より】
開催趣旨
武道の修練は、何事にもくじけない強い心身を培うとともに豊かな人間性を育むことを目的としています。
当美作地方は、古来から武道に大変造詣の深いところであり、今後当地において益々武道を隆盛させるために、武道諸団体が一堂に会して練磨し、より一層の連携を深めるとともに総合武道館の建設促進を目的に開催するものです。
平成23年津山武道学園稽古始め
1月8日(土)、津山総合体育館において、昨年までは「武道7団体合同稽古始め」として開催していましたが、今年から「津山武道学園稽古始め」として新たなるスタートを切りました。柔道さん、剣道さん、空手さん、合気道さん、弓道さん、相撲さんとの年1回の行事です。(文:少林寺拳法連盟 畝岡先生)
津山城を築城した森忠政は信州川中島の海津城から慶長8年(1603)に美作国1円18万6500石を与えられ、美作に入封しました。そして翌慶長9年(1604)に津山城築城を開始したのです。まさに関ヶ原以降の大名の転封、それに伴う新規築城という全国的な大きな流れに乗ったものです。
参考までにこの時期の外様大名による築城例をあげると、加藤清正の熊本城、細川忠興の小倉城、加藤嘉明らの伊予松山城、池田輝正の姫路城、藤堂高虎の伊賀上野城、伊達政宗の仙台城など日本を代表する城があり、津山城もそれらの城と匹敵する規模の城郭でした。さらに、津山城の築城は元和2年(1616)まで続くのですが、これは元和元年の武家諸法度の公布により築城を終了し、一応津山城の「完成」としたものと思われます。(津山城百聞録より抜粋)
▲津山城の石垣。扇の勾配(65度前後が人の目からみて一番美しいといわれている。)
【みまさかスローライフ列車】美作河井駅にて最後の『キハ28・58』号の姿 2007年取材記事、2008年特集。
平成22年11月6日(土曜日)、7日(日曜日)、運転区間:因美線 津山~智頭間(1日1往復)
美作河井駅
●1931年(昭和6年)9月12日開業
現在も開業当時の駅舎がそのまま使われている木造駅。
●鉄道ファンにより「美作河井駅ノート」が置かれている駅。「美作河井駅クラブ」というホームページもある。
●急行「砂丘」号でのタブレットの受け渡しで鉄道ファンには有名な「ブランド駅」。(鉄道ピクトリアル誌2007年1月号の表紙も美作河井駅でのタブレット受け渡し風景となっている)
●横見浩彦さんがJR全4636駅下車達成をした駅(1995.10.29)=一番最後に降り立った駅
●「鉄子の旅」(菊池直恵著 小学館)第4巻(25話)で登場
●2007年4月28日、土に埋もれていた転車台を全国の鉄道ファン約40名で発掘。日本で一番古いタイプの転車台(40フィート型)=イギリス製=の大発見となった。
この形態の転車台は日本で3箇所にしかない(明治村、津軽中里、美作河井)。
この3つの中でも美作河井の転車台のみが唯一完全な形で残っている。