津山弥生の里文化財センター企画展『お正月』です。
2020年1月9日に津山市沼にある津山弥生の里文化財センター 企画展『お正月』があり(2019年12月17日~2020年1月19日)2階の展示室にお邪魔してきました。津山弥生の里文化財センター内に収蔵されている品物の中から、お正月をテーマに、きらびやかな羽子板や着物など、おめでたく、彩り豊かな品を中心に集めて展示されています。(過去の取材)(2019年3月8日撮影)
2020年1月9日に津山市沼にある津山弥生の里文化財センター 企画展『お正月』があり(2019年12月17日~2020年1月19日)2階の展示室にお邪魔してきました。津山弥生の里文化財センター内に収蔵されている品物の中から、お正月をテーマに、きらびやかな羽子板や着物など、おめでたく、彩り豊かな品を中心に集めて展示されています。(過去の取材)(2019年3月8日撮影)
2019年12月10日のイルミネーションです。(2011年の様子です。)
沼で見かけたイルミネーション。毎年楽しませてもらっています。今年は可愛いサンタさんが出迎えてくれました。毎年飾るとなれば大変なご努力をされていると思いながら拝見しました。いつもありがとうございます。
わが津山盆地は、はるかゆう久の昔し地質年代層を示す自然の博物館です。津山城址か、神南備山から、この盆地とそれをめぐる山々を望見すれば、日本列島の生い立ちの一大パノラマを思い浮かべることができましょう。古生代の終わりころには激しい地変があって津山市内から西方に亘っての基盤である結晶片岩類ができました。結晶片岩の山は山形仙、烏が仙、黒沢山のようにけわしい貎をしています。
変成しなかった古生層は津山から東や南方の基盤をつくりますが岩石が柔らかいので、南海台のようなゆるい山地をつくります。中生代の三畳紀にはこの一帯は海になりました。城山、観測所あたりや河面の近くで魚の介が見出されます。
ジュラ紀では地区地だったので地層はありませんが、白亜紀の後半は激しい火山活動がありました。那岐山系や佐良山から高比野山にかけた一帯にはその頃の熔岩や火山の噴出物が非常に厚く堆積しています。大きくみて2回に亘りましたが、後かのもののみでも厚さが1,000mを下りません。激しい振動を伴って沢山の火口から猛烈な噴火があって巨大な岩石が飛びかよい、多くの降灰によって天日は暗かったことでしょう。そして火山が衰えた白亜紀の末から新生代の第三紀のはじめにかけては、次第に地下に陥没して了いました。その時に深いところで花崗岩類が侵入しました。天狗寺山や錦織などの深成岩がこれです。
2019年11月8日(金)・10日(日)沼のくらやアートホールに於いて、「工房 咲季」主催の2019押花作品展が開催されました。工房 咲季さんは、津山市立西中学校アート&クラフト部の皆さんと毎年押し花展を開催されています。(2018年の様子です。)
今年も大勢のお客様が来場され、美しい花々の額を魅入るようにいつまでも見つめておられました。また、津山市立西中学校アート&クラフト部の皆さんの押花も大人に負けないような作品が沢山あり楽しめました。お花のある生活はいいもんですね。
津山弥生の里文化財センターでは、発掘調査でみつかったもの(出土品)と昔の道具(民具)を展示・収蔵しています。7月からは、常設展示に加えて、考古学の企画展「土器の移り変わり」、民具の企画展「夏を感じる道具たち」蚊帳やアイスクリーム製造機、プラネタリウム映写機など夏を感じる道具たちが展示してあります。(上記写真提供:津山弥生の里文化財センター)
2019年8月7日(水)の早朝6時から沼住居跡で、津山やよいライオンズクラブ会員の皆さん(会長大戸司朗)が沼遺跡の草刈奉仕作業をされました。津山やよいライオンズクラブの名前の由来である沼遺跡の草刈奉仕作業は、昭和45年のクラブ結成以来続いているそうです。また、津山弥生の里文化財センター職員さん、有本明彦教育長はじめ津山市教育委員会職員の皆さんも参加されていました。(2017年吉井川河川敷の清掃の様子)(2016年8月24日の沼住居跡草刈の様子)
高松城の水攻め
今から約400年前の天正10年(1582)、織田信長の命を受け羽柴秀吉は、3万の大軍をもって、備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々と攻略するとともに、備中高松城を攻めた。秀吉は、高松城に城主清水宗治に利をもって降伏するよう勧めたが、義を重んじる宗治はこれに応じなかった。高松城は深田や沼沢の中にかこまれた平城で水面との比高がわずかに4mしかなく、人馬の進み難い要害の城であった。秀吉は参謀黒田官兵衛の献策に戦史にも稀な水攻を断行し、兵糧攻めにした。秀吉は、備前国主宇喜多氏の家臣千原九衛門勝則を奉行とし、3千mに及ぶ堤もわずか12日間で完成させた。時あたかも梅雨の頃で、増水した足守川の水を流し込み、たちまちにして188haの大湖水ができた城は孤立した。
6月2日の未明、京都本能寺で信長は明智光秀に討たれた。秀吉はこれをかたく秘めて毛利方の軍師、安国事恵瓊を招き「今日中に和を結べば毛利から領土はとらない。宗治の首級だけで城兵の命は助ける」という条件で宗治を説かした。宗治は「主家の安泰と部下5千の命が助かるなら明4日切腹する」と自刃を承諾した。
2019年3月8日に津山市沼にある津山弥生の里文化財センター2階の展示室に今年初めてお雛さまが飾られました。過去の取材の時にも展示室で眠っておられたお雛さまも、このように晴れの舞台に飾られて嬉しそうですね。(2019年3月8日撮影)
2018年11月2日~4日まで沼のくらやアートホールにて工房 咲季さん主催の押花作品展がありました。細部に至るまでお花を愛おしく思いながら作品作りをしておられることに感激しながら拝見してきました。
「四季の花々に魅せられ、さまざまな押花額に挑戦し作品作りをしました。津山市立西中学校アート&クラフト部の皆さんとふれあいのなか、生徒さんたち初めての押花額も ごゆっくりとお楽しみください。」とのことでした。(2018年11月3日撮影)
近長陣屋領内であった勝加茂西中の真言宗新善光寺境内鐘楼の巽位に近長代官沼尻又治郎の墓があり、自然石の碑に
沼尻又次郎重遠墓
先考仕吾 土浦候嘉永癸丑四月為近長令赴任癸丑七月罹病以五日沒于府舎無子故以甥重道為嗣葬新善光寺謚曰 沼蓮院甫仭義照居士
と刻まれて居る。碑文には病死と記されてあるも事実は近長大庄屋甲田猪右ヱ門方に於いて自刃したものであり、其死因に就ても俚傳があるも明確でなく、此没後甲田猪右ヱ門が公用の道中、攝津尼ヶ﨑附近に於て沼尻氏の為めに討たれたとのことが傳へられてゐる。