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取材記事内を検索ワード「重要文化財」で検索した結果,153件の記事が見つかりました。

千代稲荷神社と赤い太鼓橋

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2020年2月21日の千代稲荷と宮川にかかる赤い太鼓橋(2009年の取材記事
 大きな赤いちょうちんが目印の千代稲荷神社(せんだいいなりじんじゃ)の本殿は津山市指定重要文化財(建造物平成15年2月17日)です。前回の取材時よりは参道の赤い太鼓橋の色が薄くなったと感じました。また、背後の樹木はすっきりして石垣がよく見えだしましたね。(嘗ては稲荷山地区に、佐平焼の登窯が五室ありました。

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童子切安綱写し刀お披露目セレモニー

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童子切安綱(国宝 太刀 伯耆安綱「名物 童子切安綱」東京国立博物館所蔵)
 平安時代に活躍した武将・源頼光が大江山の怪物・酒呑童子の首を切り落としたという伝承を持つ太刀です。作者の安綱は、平安時代に伯耆(現在の鳥取県西部)で活躍した刀工。伯耆は、備前(岡山県)や山城(京都府)のようなメジャーな刀剣産地ではありませんが、良質な鉄の産地であるため、名工・名刀が出ています。その安綱が手掛けた刀剣の最高傑作がこの太刀で、その造形の素晴らしさが、酒呑童子伝説と結び付いたものと考えられます。
 「天下五剣」の一つとして古くから名高く、足利将軍家から豊臣秀吉、徳川家康、そして秀忠へと天下人の手を経て、秀忠の娘・勝姫が松平忠直に輿入れする際に持参し、忠直から光長、宣富へと受け継がれ、津山藩主松平家で長く家宝として伝えられました。戦後、松平家の手を離れ、個人所有を経て、現在は東京国立博物館が所蔵しています。
(ただし、この伝来には異説もあり、小牧・長久手の戦いの後、結城秀康が秀吉の養子となる際に、父家康が餞別として贈ったものとも言われます。)
 この太刀は保存状態が非常に良く、茎の目針穴が一つしかありません。これは、作成当初の姿をほぼ留めているということであり、長く大切にされてきた証しでもあります。
 このように、安綱の最高傑作という美術工芸品としての優れた価値だけでなく、天下人の手を経て津山藩主松平家に伝わったという華麗な由緒来歴を持ち合わせていることから、国宝に指定されています。

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石造無縫塔(加茂町塔中)県指定重要文化財

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石造無縫塔(津山市加茂町塔中) 県指定重要文化財
 無縫塔とは、鎌倉時代に禅宗とともに中国大陸から伝えられた石塔で、基礎の上に卵形の塔身が置かれており、卵のように縫い目のない作りから無縫塔または卵塔とも呼ばれています。基礎と塔身の間に柱状の笠と中台をもつ複雑な形状のものを重制、それがないものを単制といいます。禅宗寺院の僧の墓にしばしば用いられています。
  この無縫塔は、津山市加茂町塔中にある文殊堂の裏手にあり、隣の宝篋印塔とともに県の重要文化財に指定されています。かつてこの場所には、天龍寺(京都市)を本山とする末寺があったとされています。総高123㎝で、八角形の基礎、笠、中台の上に塔身を置く重制の無縫塔です。銘文はありませんが、その様式から室町時代初期に建てられたものと考えられます。宝暦12(1762)年に天龍寺がこの地を調査して、無縫塔を夢窓国師のもの、宝篋印塔を開山宝山和尚のものと認定したということが脇に建てられた石碑に刻まれています。

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文殊堂と県指定重要文化財(加茂町塔中)

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  作東誌(文化十二年 西暦一八一五年)によれば、文殊堂は、小中原村成興寺持で松渓庵と称し、文殊菩薩木像を安置するとある。ここにはかつて獅子吼山法音寺(安政四年 西暦一八五七年初屋文書によれば法苑寺とも、文久四年 西暦一八六四年新調の振亀箱には法音寺と記されている)という京都の天龍寺の末寺の禅寺があったが、創建された時期などつまびらかではない。現在の堂宇は、明治時代に火災に遭遇し再建されたものである。往時は御開帳を、旧正月二十五日に大般若経の転読の奉修が行われていたが最近では毎年三月第一日曜日に甘酒供養を、夏七月二十五日には大念珠まわし供養が行われ、知恵の文殊と崇拝されている。堂裏の墓地の一角には、岡山県指定重要文化財(昭和三十四年三月指定)があり、室町初期から南北朝期の様式をとどめる、石造無縫塔と石造宝篋印塔の二基がある。石造無縫塔は京都の天龍寺の開祖の夢窓国師のもの、石造宝篋印塔は松渓庵開山の宝山大和尚のものであると、宝暦十二年六月(西暦一七六二年)に本山天龍寺から来山し古記録と照合認定したという自然石の碑が塔前に建っている。松渓庵をつつむ自然のたたずまいの中に、時の流れの今昔をしのんでいただきたいものである。
塔中部落・加茂町観光協会
平成三年三月吉日

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本山寺宝篋印塔(美咲町)

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本山寺 宝篋印塔(美咲町定宗) 国指定重要文化財
 宝篋印塔とは、もとは宝篋印陀羅尼経という経典を納めるための塔で、基礎の上に塔身を置き、方形の笠をのせ、その上に相輪が立てられます。四隅に装飾突起がついた笠ご特徴的な石塔です。岡山県は宝篋印塔が多く作られた場所で、特に美作地域南部に多いとされています。

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2020八出天満宮の「とんど祭」

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 2020年1月12日(日) 13:00 〜 14:00 八出天満宮の宮総代さんから案内を戴き、とんど焼きの行事を取材してきました。「とんど焼き」は、正月の松飾り・しめなわ・書き初めなどを各家から持ち寄り、一箇所に積み上げて燃やすという、日本全国に伝わるお正月の火祭り行事です。(2016年八出天満宮のとんど焼きの様子です。
 八出天満宮は菅原道真公が御祭神。古来この地に残る言い伝えによると、「天安元年(857年)美作の国司として赴任しておられた父是善が、この地に流行っていた疫病に罹り、父の病を心配した若き日の道真公(吉祥丸)が、遠く京都から見舞いに来られた全国の天満宮の中でも稀な縁起と最古に位置する起源を持つ由緒あるお宮である。

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田熊の舞台 防災施設改修記念イベント

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 田熊の舞台 防災施設改修記念イベントが2019年10月26日(土)田熊八幡神社(津山市田熊2384)でありました。国指定の重要部系民俗文化財である田熊(たのくま)の舞台で、防災施設の改修完了を記念して太鼓や獅子舞、漫談、舞踏などが上演され、来場された方々は可愛い子どもの踊りをはじめ夢小路あきまろさんの漫談等で大いに楽しんでおられてました。

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竜堂山 瑞泉院(久米南町)

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竜堂山 瑞泉院(第二十二番)
 当山は元、竜堂山阿弥陀寺といい、弘仁十二年(821)三月、玄昉末流賢景がこの地の一草堂(古御堂)に掛錫した折に、弘法大師の作と伝えられる阿弥陀堂を発見したことに始まります。昼夜禅定修観を凝らしていたところ、一夜本尊を夢の中に感得するところとなり、四年後に阿弥陀寺が建立されたと伝えられています。ところが明治五年に無住無檀のため、ひとたび廃寺となりました。
 その後、竜王山城主・岸備前守氏秀の祈願所となり、墓所も当山に設けられました。
 しかしながら、朝夕聞き慣れた鐘の音を慕って、有徳の人々が本尊供養と旧蹟保存を志すところとなります。
 岸氏の末族を初め、心ある信徒らが勧進に動き、明治二十五年十月、高野山より瑞泉院を移転し、現在に至っています。
 仏頂山興禅寺跡(三村家親供養塔)
 永禄九年(1566)、備中成羽城主・三村家親が、兵六千を率いて本陣を興善寺におき戦死しました。供養塔が興善寺跡(下籾一四八一番地)にあります。時代が下って明治四十四年の六月に、瑞泉院と合併しました。

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醫王山 佛教寺(久米南町)

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岡山県久米郡久米南町「醫王山佛教寺」の略歴と沿革
 当山、醫王山佛教寺は和銅3年(710)喜恵上人が開山、肩野部長者乙麻呂が創建した古刹。元明天皇の勅願道場として、東西80町南北100町の地域を賜った。
 元慶3年(879)二十二世、文観上人の時代、陽成天皇の勅願道場として、四十九院建立、近隣に比類なき伽藍美を誇ったが、天正9年(1581)兵火に罹れて悉く烏有に帰した。
 その後再建したがわずか六院だった。慶長9年(1604)津山藩主森忠政が寺領を寄進。堂塔を再建したが、元禄10年(1697)森家が断絶となり、経営の基を失って困難を極めた。
 明治初年まで六院あったが、本堂や仁王門を取り壊して、竹林寺(佛教寺別院)の文殊堂を移して本堂とした。
 現在諸堂の建物は、弘法大師1150年御遠忌を記念し、昭和49年より現在に至るまで、境内諸建物の営繕を行って来た。現在の住職は九十二世である。
 『竹林寺縁起』(永享7年=1435別当沙門良春、筆者宥然)に、「当国一宮、仲山大明神御社敷の本主肩野部長者・喜恵上人に帰依し奉り上人の寺を建立せんとして三百町の別所を開き、元慶3年乙亥の年四十九院を建立、夢想によって佛教寺と号す」とある。(文:佛教寺リーフレットより)(2019年9月8日撮影)

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二上山 両山寺(美咲町)

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高野山真言宗準別格本山両山寺
 当、両山寺は、人皇四十三代元明天皇の御宇和銅七年(714)開祖泰澄法師が観音の霊夢により草創されし霊刹で御本尊は、正観世音菩薩にして尊像は天竺毘首羯摩の作なり。山は二峯併立し恰かも金胎両部を表示し、一岳両峯真に天地自然の妙容なり、故に山を二上山と呼び、寺を両山寺と号す。開山の砌りは、真言、天台の二道場にして二十有余坊の僧坊、七堂伽藍を有し近国の名刹として頗る聞こえしがいつしか天台宗衰え真言一宗となり、現在は本坊一寺となり他は字名として残るにとどまり栄枯盛衰の跡を物語るにすぎない。養老年中(717~723)唐土の不空三蔵当山の本尊を加持し、国家安泰を志願し五智尊像を五重塔に納められるが、永禄八年(1565)尼子氏と毛利氏の奸戈により堂塔伽藍を焼失せり。此の時、本尊正観世音菩薩天野ヶ原に飛行士光明を放ちて赫々たるを朱雀天皇の御苗流僧正良尊大和尚直に尊像を守護し奉って、再び此の地に堂宇を建立し本尊を安置す今の本尊即ち是れなり。
なお、元禄元年(1688)十一月朔日、当国の大守長成公より万代不易の寄附顕然たり。而して当山、其境幽遽にして頂嶺の遠望は両眼象山恰かも平地の如く一度山頂に立てば雄大の気自ら迫り無二の霊場と言う可きである。また当山の鎮守護法善神は、仏法擁護、伽藍安全の守護神で、建治元年(1275)七月僧定乗護法の詑宣を得て、毎年陽暦八月十四日祭式(県指定重要無形民俗文化財)を修め天下泰平、万民快楽の祈念を行っている。 合掌(文:境内の案内板より)

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