美作の大庄屋「田中家」(英田郡海内)

mimasaka-syoya4.jpg

田中家 田中久太夫 英田郡海内村 森藩 沼田藩
大庄屋まで
 田中氏は、三星城主後藤勝基の家臣田中信濃守が祖先であるという。その子次郎兵衛が海内村に帰農し、その子久太夫が森藩の大庄屋に任命された。享保15年(1730)英田郡など3郡1万4000石が上野沼田藩士岐領になると、再び、大庄屋に任命され、代々長兵衛を名乗った。
大庄屋として
 沼田藩は、海内村に陣屋を置いた。田中長兵衛は士分にとりたてられ、年貢の徴収・輸送にあたった。中庄屋として協力した山外野村の黒田家は薬草園経営のも関わっていたという。
 慶応2年(1866)改政一揆が起きると、沼田藩は、鯰村の隋縁寺など領内4ヶ寺に一揆との交渉を依頼、金4000両と米1500俵を一揆勢に渡すことで願書を撤回させた。とくに隋縁寺の僧侶日正上人の活躍があった。上人の墓は妙法寺(津山市西寺町)にある。大庄屋の田中長兵衛も一揆の鎮静化に尽力した。

mimasaka-syoya5.jpgmimasaka-syoya6.jpg

美作市指定重要文化財(史跡)海内代官所跡(みうちだいかんしょあと)
 享保15年(1730)から明治4年(1871)まで、上州(現群馬県)沼田藩(藩主土岐氏3万5千石)が、英田、勝田郡内の30余ヵ村、約1万4千石の飛び地を支配するために置かれ、ここは海内陣屋ともいわれた。周辺には役宅、刑場等の施設もあった。(平成17年3月31日指定 美作市教育委員会)

mimasaka-syoya1-1.jpgmimasaka-syoya1-5.jpg

代官所碑(代官所跡は海内53-2の付近)
所在地
 海内村は、吉野川左岸にあり、幕谷山の麓にあたり、三方を山に囲まれたわずか38石という狭い低地の村である。吉野川を利用した高瀬舟の川湊でもあった。沼田藩の陣屋が置かれ、代官野澤折右衛門の墓が残っている。

mimasaka-syoya10.jpgohaka.jpg

突き当り左の笹薮の中に墓地があります。

mimasaka-syoya9.jpgmimasaka-syoya1.jpg

墓地                      手前の水田が屋敷跡

屋敷・墓地
 屋敷跡は、低地中央に位置し、水田になっている。陣屋は屋敷に隣接していた。墓地は低地の西端の山際に残っているが荒廃している。菩提寺は日蓮宗本妙寺(美作市海田)である。
子孫
 子孫は不明である。
(文:『美作の大庄屋~故地をたずねる~』より)(2019年2月24日撮影)