美作の大庄屋「土居家」(下田邑)
土居家 土居七郎兵衛 西北条郡下田邑村 森藩~松平藩
大庄屋まで
土居氏は、伊予の河野家の末裔である。天正年間に毛利氏の武将であった土居四郎次郎が神楽尾城の守りとして入ってきたのが、田邑土居家の始まりと伝えられている。その子、孫右衛門が帰農した。七郎右衛門が寛永8年(1631)大庄屋に任命され、二男太郎右衛門が河辺村土居家、三男伊右衛門が田辺村土居家として分家し、ともに大庄屋を勤めた。
土居家 土居七郎兵衛 西北条郡下田邑村 森藩~松平藩
大庄屋まで
土居氏は、伊予の河野家の末裔である。天正年間に毛利氏の武将であった土居四郎次郎が神楽尾城の守りとして入ってきたのが、田邑土居家の始まりと伝えられている。その子、孫右衛門が帰農した。七郎右衛門が寛永8年(1631)大庄屋に任命され、二男太郎右衛門が河辺村土居家、三男伊右衛門が田辺村土居家として分家し、ともに大庄屋を勤めた。
田中家 田中久太夫 英田郡海内村 森藩 沼田藩
大庄屋まで
田中氏は、三星城主後藤勝基の家臣田中信濃守が祖先であるという。その子次郎兵衛が海内村に帰農し、その子久太夫が森藩の大庄屋に任命された。享保15年(1730)英田郡など3郡1万4000石が上野沼田藩士岐領になると、再び、大庄屋に任命され、代々長兵衛を名乗った。
大庄屋として
沼田藩は、海内村に陣屋を置いた。田中長兵衛は士分にとりたてられ、年貢の徴収・輸送にあたった。中庄屋として協力した山外野村の黒田家は薬草園経営のも関わっていたという。
慶応2年(1866)改政一揆が起きると、沼田藩は、鯰村の隋縁寺など領内4ヶ寺に一揆との交渉を依頼、金4000両と米1500俵を一揆勢に渡すことで願書を撤回させた。とくに隋縁寺の僧侶日正上人の活躍があった。上人の墓は妙法寺(津山市西寺町)にある。大庄屋の田中長兵衛も一揆の鎮静化に尽力した。
2020年01月11日(土)~ 2020年01月26日(日)、 ポートアート&デザイン津山にて「碗の中の小宇宙 秘めたる器『曜変天目』」が開催され大勢の方が訪れていました。
この作品展は、日本に3点しか存在しない国宝「曜変天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)」をひたすら追及する陶芸家の鈴木禎三さん(津山市在住)の作品展です。
「器として何か超越している〈もの〉を内包している国宝『曜変天目』におもいをいたすと、人が生み出す〈もの〉には〈いにしえ〉の人なら感じることができるであろう〈心〉〈自然〉がただただそこにはあると思う。まだまだ力不足な自身の『曜変』の天目ではあるが国宝『曜変天目』と少しでもなにか通ずる所を感じてもらえたらと切に思う。鈴木禎三」
鈴木禎三さんのプロフィール
1974年大阪府堺市生まれ、1994年岡山県備前陶芸センター卒業、1997年青年海外協力隊としてフィリピンに派遣(~2000年)、2002年岡山県津山市に作陶の拠点を築き天目の研究を始める、2014年初個展、2015年JICAシニアボランティアとしてベトナムで陶芸指導。
中西家 中西孫右衛門 東北条郡小中原村 森藩~松平藩 関宿藩
大庄屋まで
中西氏は、戦国末期、津山市勝北町西中にあった中西城の城主であった。中西玄蕃頭は尼子氏に従っていたが、のちに矢筈城の草刈氏に従った。草刈氏と姻戚関係を持ち、重臣として活躍し、草刈重継が毛利氏に従い安芸へ退去したとき、加茂郷に帰農したという。孫右衛門が森藩により大庄屋に任命された。
坪井宿(別名「麦飯町」とも呼ぶ)
坪井の町は、津山から西へ3里(12㎞)北は国道181号線、南は七森川に挟まれた静かな町で、今も昔をしのぶ家並みが残っています。
◎坪井宿場の成り立ち
中世から戦乱により、天正7年(1579)河本城(構の城)が落城、続いて岩屋城も天正18年(1590)野火により廃城となり多くの武将・家臣団の帰農が始まり付近に居を構えた。これが集落の始まりではないかと言われている。集落は、久米川沿いの山根市場、後坪井、薬師堂一帯に作られたという。(故安藤貞郎氏が成人大学で受講記録より)
また、元亀元年(1570)・承応3年(1654)・延宝元年(1673)・延宝8年(1680)・元禄15年(1702)・放映4年(1707)と美作地方に、暴風雨・大洪水が6回あったと記録されており、久米川も大洪水となり、山根市場、後坪井、薬師堂一帯が流失、その後住民は現在の坪井に移住したと伝えられている。
福井の小字本平集落の西側は、丘陵性の山地であり、それぞれの谷筋に山道がついている。集落北端の山麓山道を少し上がると、谷筋に南面して仏様を祀っている比較的新しいお堂(逗子)がある。標札に「勝南霊場第弐拾弐番 御本尊薬師如来」とはっきり書かれている。また、内部の板には、「金剛三昧院第七五番 札所」とある。
これが、本平の住民がお参りしえいるいわゆる「おやくしさん」である。さらに、祭壇を見ると、光背をもった小さな薬師様の像と共に、高さ1m近い梵字の刻まれた石碑が並んで祀られている。
石碑の正面は、珍しく全て梵字で書かれており、この石碑は、本格的な信仰対象の石仏様であることが分かる。
側面に「延享元甲子天十月二八日」と刻まれている。延享元年は1744年であり、徳川吉宗の政治が行われていた江戸時代半ばのかなり古いものである。清瀧寺さんの解読で判明したとのことであるが、梵字の石仏は、「大日如来」の仏様であり、河面の旧真加部街道筋の大日如来とは類型を異にしている。
福井の本平集落の西側は、山地となっているが、そこに井ノ奥谷(いのおくたに)と呼ばれる谷がある。そこには、明らかに半ば削り取られたとわかる古墳があり、その中央部分を平らにして、早神様(はやがみさま)と言われる小詞が祀られている。また、その後側のすぐ近くに、井上一族のこれまた珍しい先祖社が祀られている。
所在は、井ノ奥谷に入ってすぐ山際北斜面である。
その場所は、かつて森藩政のもとで、福井村の大庄屋であり、福井八幡宮の軒札にも名前が記載されている井上五良兵衛(いのうえごろべえ)の屋敷があったすぐ裏手の山である。井上五良兵衛の庄屋屋敷は、今は全く畑となっているが、屋敷裏の谷には、いまも防火用水池のあとが残されている。その池付近から、この古墳や祠を見ることができる。
津山市の埋蔵文化財センターでは、この山地に本平古墳群として、三基の古墳を登録しているが、古墳時代末期の、この早神様が祀られている古墳もその一つに該当している。
・オコジョ(Ermine)食肉目 イタチ科
イギリスを含むヨーロッパ中北部、アジア中北部、北米に分布する。自分の体よりも大きいノウサギやライチョウを捕食することがある。
博物館の建物は、昔の高等学校を改築したもので 展示総数は約22,000点あるそうです。ここに載っているのは、ほんの少しですが、館内にはめずらしい動物達がいっぱいです。インドライオンやローランドゴリラといった動物のはく製は世界でも珍しく、希少動物の取引を禁じる「ワシントン条約」発効前に館が設立されたために実現した貴重なものです。
2019年8月8日立っているだけでくらくらするような炎天下、院庄にある作楽神社東側の発掘現場にお邪魔してきました。ここは住宅地になるそうで、その前に発掘調査がなされていました。現場で作業されているみなさんご苦労様でした。
大山みちを歩こう会(第6区)立石~延助間(9.7㎞ 実質距離 10.5㎞)
令和元年5月19日(日)、主催:出雲街道 勝山宿の会
■大山みちとは
現在の真庭市久世を中心として、東西には五街道(東海、中仙、甲州、日光、奥州)に匹敵する、重要な出雲街道(姫路~松江)があります。出雲街道は雲州と大和朝廷や京大阪を結ぶ、幹線となっていました。また南北には、古くより「大山みち」と呼ばれた古道があり、備中の国分寺跡を発し、足守より粟井温泉~掛畑~千升乢~加茂市場~尾原~鰻出~鹿出~落合~久世~三坂峠~禾津~藤森~延助~内海乢を経て、御机~鍵掛峠~伯耆大山寺に通ずる道があります。陰陽を結ぶ代表的な路線であり、人、物、牛馬、文化を運び、また、農民一揆の道でもあり、大山詣での信仰の道でもありました。現在ではその殆どは、一般道路に併合吸収されて昔の姿は止めていません。