取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「森家」で検索した結果,139件の記事が見つかりました。

竜堂山 瑞泉院(久米南町)

9-7zuisenin16.jpg

竜堂山 瑞泉院(第二十二番)
 当山は元、竜堂山阿弥陀寺といい、弘仁十二年(821)三月、玄昉末流賢景がこの地の一草堂(古御堂)に掛錫した折に、弘法大師の作と伝えられる阿弥陀堂を発見したことに始まります。昼夜禅定修観を凝らしていたところ、一夜本尊を夢の中に感得するところとなり、四年後に阿弥陀寺が建立されたと伝えられています。ところが明治五年に無住無檀のため、ひとたび廃寺となりました。
 その後、竜王山城主・岸備前守氏秀の祈願所となり、墓所も当山に設けられました。
 しかしながら、朝夕聞き慣れた鐘の音を慕って、有徳の人々が本尊供養と旧蹟保存を志すところとなります。
 岸氏の末族を初め、心ある信徒らが勧進に動き、明治二十五年十月、高野山より瑞泉院を移転し、現在に至っています。
 仏頂山興禅寺跡(三村家親供養塔)
 永禄九年(1566)、備中成羽城主・三村家親が、兵六千を率いて本陣を興善寺におき戦死しました。供養塔が興善寺跡(下籾一四八一番地)にあります。時代が下って明治四十四年の六月に、瑞泉院と合併しました。

竜堂山 瑞泉院(久米南町)の続きを読む

醫王山 佛教寺(久米南町)

bkkyouzi.jpg

岡山県久米郡久米南町「醫王山佛教寺」の略歴と沿革
 当山、醫王山佛教寺は和銅3年(710)喜恵上人が開山、肩野部長者乙麻呂が創建した古刹。元明天皇の勅願道場として、東西80町南北100町の地域を賜った。
 元慶3年(879)二十二世、文観上人の時代、陽成天皇の勅願道場として、四十九院建立、近隣に比類なき伽藍美を誇ったが、天正9年(1581)兵火に罹れて悉く烏有に帰した。
 その後再建したがわずか六院だった。慶長9年(1604)津山藩主森忠政が寺領を寄進。堂塔を再建したが、元禄10年(1697)森家が断絶となり、経営の基を失って困難を極めた。
 明治初年まで六院あったが、本堂や仁王門を取り壊して、竹林寺(佛教寺別院)の文殊堂を移して本堂とした。
 現在諸堂の建物は、弘法大師1150年御遠忌を記念し、昭和49年より現在に至るまで、境内諸建物の営繕を行って来た。現在の住職は九十二世である。
 『竹林寺縁起』(永享7年=1435別当沙門良春、筆者宥然)に、「当国一宮、仲山大明神御社敷の本主肩野部長者・喜恵上人に帰依し奉り上人の寺を建立せんとして三百町の別所を開き、元慶3年乙亥の年四十九院を建立、夢想によって佛教寺と号す」とある。(文:佛教寺リーフレットより)(2019年9月8日撮影)

醫王山 佛教寺(久米南町)の続きを読む

二上山 両山寺(美咲町)

ryozanji4.jpg

高野山真言宗準別格本山両山寺
 当、両山寺は、人皇四十三代元明天皇の御宇和銅七年(714)開祖泰澄法師が観音の霊夢により草創されし霊刹で御本尊は、正観世音菩薩にして尊像は天竺毘首羯摩の作なり。山は二峯併立し恰かも金胎両部を表示し、一岳両峯真に天地自然の妙容なり、故に山を二上山と呼び、寺を両山寺と号す。開山の砌りは、真言、天台の二道場にして二十有余坊の僧坊、七堂伽藍を有し近国の名刹として頗る聞こえしがいつしか天台宗衰え真言一宗となり、現在は本坊一寺となり他は字名として残るにとどまり栄枯盛衰の跡を物語るにすぎない。養老年中(717~723)唐土の不空三蔵当山の本尊を加持し、国家安泰を志願し五智尊像を五重塔に納められるが、永禄八年(1565)尼子氏と毛利氏の奸戈により堂塔伽藍を焼失せり。此の時、本尊正観世音菩薩天野ヶ原に飛行士光明を放ちて赫々たるを朱雀天皇の御苗流僧正良尊大和尚直に尊像を守護し奉って、再び此の地に堂宇を建立し本尊を安置す今の本尊即ち是れなり。
なお、元禄元年(1688)十一月朔日、当国の大守長成公より万代不易の寄附顕然たり。而して当山、其境幽遽にして頂嶺の遠望は両眼象山恰かも平地の如く一度山頂に立てば雄大の気自ら迫り無二の霊場と言う可きである。また当山の鎮守護法善神は、仏法擁護、伽藍安全の守護神で、建治元年(1275)七月僧定乗護法の詑宣を得て、毎年陽暦八月十四日祭式(県指定重要無形民俗文化財)を修め天下泰平、万民快楽の祈念を行っている。 合掌(文:境内の案内板より)

二上山 両山寺(美咲町)の続きを読む

徳守神社社殿 県指定重要文化財(建造物)

zentai-t.jpg

 当社の由緒については諸説あるが、徳守宰相を祀る「勅使宮」であるとする『森家先代実録』『作州記』等の説と、天照大神を祀る「勅旨宮」で天平以前の鎮座とする『美作風土畧』等の説との二つに大別できそうである。矢吹正則は『徳守神社誌』において「伊勢神廟ヲ勧請シ奉リシモ古キ御事ニテ一度皇太神ヲ合祭シ奉テハ之ヲ主神ト仰キ奉ルハ尊神ノ衷情二出シモノニテ敢テ祭神ヲ左右セシモノニハ非ルへシ」と合理的に解釈している。古代の総社宮での重陽祭では、幣を奉納する近郷八社の一つであったという。
 天文8年(1539)に焼失したが、慶長9年(1604)春、森忠政が築城に先立ち、津山の鎮守として徳守神社を再建、同年内に落成して遷宮され、新田村において70石の社領を寄附された。2代藩主森長継は寛永14年(1637)さらに10石を加増し、寛文4年(1664)に社殿を新築した。現在の本殿・釣殿・拝殿がこれに当たる。

徳守神社社殿 県指定重要文化財(建造物)の続きを読む

法雲山 妙願寺書院北庭に建つ郷(渓花院殿)のお墓

keikainden18.jpg

 忠政の後を継いで津山二代藩主になったのは関家の流れである外孫長継である。1年後の寛永12年江戸に着いたその日の2月11日、池田備中守長幸の息女お鶴(大御前)と婚姻した。その次年の寛永13年には、将軍徳川家光の命により江戸市谷御普請手伝いとあわただしい消光の中、紹向とのトラブルもあった。長継27歳の時である。
 長継と紹向は従兄弟同士であって、長継は紹向を「親兄の如く」慕っていたのであるが、妙願寺再建立のことが紹向の意のままにならず、「諸子末寺一等に退院」したのであった。ここに注目すべきは「末寺」という表現である。四ケ寺が建立されて、本願寺がその寺号をいつ認めたかは定かでない。また、妙願寺が造営された後に寺中四ヶ寺誰が寺務をとっていたのかも不明であるが、寺院の形態として、妙願寺境内地南側に長泉寺・養元寺・教念寺・善正寺の四ヶ寺かあるいはその一部の寺が造営されていたことは間違いないと思われる。なお、長継の時代には盛んに寺社の造営が行われている。また、寺社とは別であるがこの頃は嗣子以外の男子に一家を創立させて分地を与え、幕府に願い大名の列に加えることが行われていた。

法雲山 妙願寺書院北庭に建つ郷(渓花院殿)のお墓の続きを読む

保田家の長屋(野村)

9-22yasuda52.jpg

2018年9月に保田家の長屋(ながや)を拝見して来ました。この長屋は、母家の西側から北側へとL字につながる建物が今も現存している旧家の長屋です。(2018年9月23日現在)


 保田氏について、ことわざに「野村の保田は總保田」と云う語があり、野村の保田一族が繁衍(はんえん=繁栄)の状態にあることを意味している。しかし、森家時代から里正(りせい=里の長)を勤め又、松平領になって中里正を勤めたと云い、美作百五十六舊家(きゅうか=由緒ある家)の中の一つで、その出自については明らかに武門の流れを引いていたと思われる。
 東作誌は野村の肝煮は保田氏平作、庄屋は同忠右衛
 大庄屋並と言われた市郎右衛門とは御家の定政(代々多く襲名)であろうか。保田家の墓は野村の片山の丘陵地庵山にある。菩提寺は天台宗金華山永案寺であったが、明治年間棄釈して神道となった。(文:大庄屋巡り―美作東部(加茂川流域)―より抜粋)

保田家の長屋(野村)の続きを読む

光井家の先祖まつり2018

senzo20.jpg

河面地域で、ある老婆と話をしていると、次の旨の話を聞くことができた。
「私ら光井姓を名乗る一族は、上原の先祖の社をお祀りしている。
 年に一度、秋には先祖祭りとして、親類縁者の光井株が皆集まって近長の大夫(神主)に拝んでもらった後、その場所でにぎやかに会食する。神様として"武内さん"を祀っている。」後日、近くの老人に案内してもらった。上原集落に近い丘陵に、屋敷森か古い塚(古墳)を思わせるこんもりとした林があって、鳥居や境内をもつ先祖社が祀られていることが分かった。
 古代から氏神信仰は、一族で先祖を祀る社をもち、「予祝祭」(よわいまつり)として春、「収穫祭」としての秋にお祭りを行い、一族みんなでの共同飲食をする習わしがあった。(岡山県史古代2)これは、それを今にしてうかがえる氏神信仰の珍しい社である。
 光井家については、「森家以来の大農にして、旧家たり。相伝う、光井氏は当国神楽尾城主田中修理大夫某の子、光井大夫を以って始祖とす。その子孫毛利家に仕ふ。毛利背下の周防国住人光井右京亮の裔(えい)という。」(東作誌)とある。先祖は周防地方(山口県)の同姓の多い光の出自とのことである。市内にある神楽尾城や医王山城は、毛利配下の城であり、光井家は先祖が毛利家としてかかわるだけに、光井一族の信仰が注目される。

光井家の先祖まつり2018の続きを読む

2018 衆楽園の紅葉

syuraku26.jpg

 2018年11月14日、曇りの予想でしたが晴れたので急いで、衆楽園のモミジを観に行って来ました。
衆楽園は、江戸時代初期に津山藩主・森家によって築造された回遊式の庭園です。元禄11年(1698)に松平家が藩主となって以後幕末までは、家臣や他藩・他家からの使者を謁見するための「御対面所」、または藩主の隠居所の庭園として使われ、明治3年(1870)に「衆楽園」として命名されました。
  衆楽園は津山城の北側(津山市山北)に位置しており、庭園は南北に長い敷地で、大半を池が占めています。別邸跡の古い建物群は現存せず、それらを再現した建物(余芳閣・迎賓館・風月軒ほか)が建っています。(津山城より)

2018 衆楽園の紅葉の続きを読む

大崎神社(中原)

ozaki24.jpg

大崎神社
由緒・沿革
 森家神明帳によれば、三條天皇の時代長和4年(1015年)11月に、前年、秋季より中原郷内に疫病が流行して死するもの多く、一年余りにして尚止まらず益々甚だしく、これを美作守源道方に訴えました。
 道方は当時宮内卿として美作守も兼務の折柄、宮内吏に崇神天皇5年、天下に疫病流行して止まらざるにより、翌年、和州笠縫の里に大国魂神、大物主神を勧請して三輪明神と崇めたら天下の疫病ことごとく治りました。
 この例を聞き、道方同年の貢稲100束をもって長和5年5月当郷に大国魂神を勧請して西大崎明神と、大物主神を勧請して東大崎明神と崇めたところ疫病がたちまち鎮止しました。
 以ってこの明神に不敬ある族は必ず疫病に懸かり、又は不幸に陥ると氏子大いに恐れまして厚く尊崇しました。

大崎神社(中原)の続きを読む

美作東部―大庄屋巡り「甲田猪右衛門僖行」(近長村)

kouda10.jpg

 近長村は勝北郡に属し、北西を加茂川が流れる。慶長九年の検地帳では近永村とあり、検地高は三百二十五石余、元禄十年の美作国郡村高辻帳では三百六十五石余とある。現在の津山市近長である。森藩廃絶後、元禄十一年には幕府領となり、延享四年(1747)以後常陸国土浦藩領となる。ここには高札場・米蔵・牢屋が各一ヵ所あったと云う(東作誌)。土浦藩は美作の内吉野郡・勝北郡一万九千八十石余を領し、初めは吉野郡下町村に代官所があったが、寛政四年から当村にこれを移している。

美作東部―大庄屋巡り「甲田猪右衛門僖行」(近長村)の続きを読む