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取材記事内をタグ「出雲街道」で検索した結果,23件の記事が見つかりました。

旧出雲街道「土居宿 西惣門」(美作市)

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復元された門(門の高さ:6m50cm、幅:7m88cm)
 この惣門は、慶長(1596~1614)年間に幕府による出雲街道の整備にあたり、ここに美作七駅の1つとして土居宿駅を定めた際、東と西の出入り口に関門を設け、朝夕門番によって開閉し、国境の警備のために建築されたもので、明治2年の関所廃止令により取り壊されたものを平成13年3月復元建築したものです。宿場町の両端に惣門を備えていたのは、全国的にもまれな事例といわれています。

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弘法大師碑(久米南方中)

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 「大正3年、旧久米村・倭文村・多い東村中で、高祖弘法大師を深く信仰する人が集まって、弘法大師碑を建立してお祀りをしょうと協議し、前述の村人に勧進帳を作り協力を呼び掛けた。地域の人約300余人の協力があり、180円余りの大金が集まった。(当時100円でで一軒家が建つといわれた。)
そして、昭和2年に建立された」と地元の實成さんが、「私のおじいちゃんが、青年の時で、この仕事の下働きをしていた。」と話してくれた。碑には、「再興大正3年春 昭和2年建立」とある。久米・苫田郡八十八か所霊場の一つである。(文:「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会(第6区)」)

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茶屋一里塚(領家)

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 「旧街道(出雲街道)に堠樹として榎が植えてありました。360余年たって巨木となり枯れてしまいました。
 しかし、その根から新しい命が生まれ、今は、先代の巨木に負けじと大きくなってきました。
 前の巨木は樹木医と相談し、このまま倒れたら近所の家に迷惑がかかるかもしれないとの心配があるので、今から5~6年前に切りました。」と地区の井上さんが話してくれました。
(文:出雲街道を歩こう会「坪井宿」資料より)(2020年11月23日撮影)

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二つ柳のいわれ(南方中)

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 大字南方中長谷の出雲街道から寺岡に渡る橋のたもとに地神石の傍らに二本の柳の木があった。
昔、出雲の国の人で観音様に深い信仰を持った男が、諸国の霊窟(神仏を祀った神聖ないわや)をめぐるためにこの地を通過した時、この地で柳の枝を折って箸にして弁当を食べた。この男はその頃脚気であろうか脚疾をわずらっていた。食事を終わった男は箸をこの地に植えて。「これからの長旅を控えてこの脚の病に苦しんでいるが、どうか観音様のご利益によって、目的の霊場の場巡りを終えこの地に帰ったところ、かの箸は枝葉よく茂り巨木となっていたので「二つ柳」と名付けた。
 また、この街道は伊勢参宮の道で、昔伊勢参宮の姉と弟の二人が柳の箸を作って食事をした後でその箸を地に挿し、「残るとや、かげも形もみえねども」と姉がくちずさめば、弟がすぐにそれを受けて、「いつの世にまでものこれ木の箸」と歌をよんだそうで、その二本の箸が二本の柳になった」のだ、ともいわれている。『久米町史』より

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馬頭観音のイボ神様・念仏供養塔・六体地蔵様

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 2020年11月8日、「出雲街道 勝山宿の会」主催で、つながる「出雲街道」を歩こう会の特別企画第二弾(大井西の会と共催)で、津山市中北上~宮尾間を歩いてきました。実際に歩いてみないと細かなところまでは分かりませんが、資料を片手に歩いたところを紹介してみます。
 このページでは、坪井下の馬頭観音のイボ神様・念仏供養塔・六体地蔵様です。すぐ近くには餝摩津(しきまず)斉七塚鶴亀神社(鶴坂)・鶴坂神社等があります。

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大渡新田の碑・三村の界栗・千代のいわれ(坪井)

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大渡新田の碑(坪井駅前国道の南側)
 文化年間(1804~1817)坪井駅のあたりを「大渡」とい、南方村と坪井下村の村境であった。
 当時は雑木や籔の荒れ地であったが、福本・池田等8人の力により開墾が行われた。
その2~30年後、美田となって完成した。大渡新田は、水旱(大水や日照り)災い無く五穀豊穣であったが、その下流の住民と灌漑用水を巡って、訴訟沙汰があったと伝えられている。天保8年(1837)に建立されている。

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出雲街道を歩こう会「坪井宿」

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 2020年11月8日特別企画(第2弾)「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会(第6区)」に参加してきました。久米ふれあい学習館をバスで出発、岩屋城麓に着き簡単な説明を受け徒歩出発しました。約4時間ほどかけて無事久米ふれあい学習館に戻ってきました。
 出雲街道とは、播磨の国 姫路を発し、出雲の国 松江に至る約215kmの古道を言う。また、終点は松江を過ぎ、出雲大社とも言われている。
 今回は「つながる出雲街道(東部Ⅱ)」を歩こう会より、特別企画 第2弾として、大井西の会の応援を得て、共催で開催されました。津山市・中北上~同・宮尾間7.8km(実質9.0km)

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出雲街道、勝間田宿「下山家古文書展」

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 令和2年10月27日(火)~11月8日(日)まで、勝央美術文学館町民ギャラリー1で「出雲街道勝間田宿 下山家古文書展」が開催されています。

はじめに
 出雲街道は、古代には畿内と出雲を結ぶ道として発展し、人々や文物が行きかう交通の要路でした。江戸時代になると参勤交代のため街道が整備され、休憩や宿泊の拠点として整備されていきました。
 勝間田は参勤交代の宿場町として整備され、美作七宿のひとつとして栄えていました。宿場内には、諸藩の参勤交代にあたって、大名や供の者が泊まった旅舎が二つあり、おもに津山藩主などが宿泊した下山本陣と、松江・勝山藩主などが宿泊した木村本陣がありました。今回の展示では、下山本陣と本陣を営んでいた下山家に焦点を当て、関連の古文書を展示いたします。

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出雲街道を歩こう会「勝間田宿」

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2020年9月27日「出雲街道を歩こう会」に参加してきました。
 出雲街道とは、播磨の国 姫路を発し、出雲の国 松江に至る約215kmの古道を言う。また、終点は松江を過ぎ、出雲大社とも言われている。
 大和朝廷が、武力で全国平定をしたのに対し、出雲は神話に登場するが如く、平和狸に国譲りが行われ、朝廷より優遇されて、鉄の産出も始まり、街道は繁栄してきました。街道は人、物、文化を運ぶ役を果たし、その重要性は五街道(東海、中仙、甲州、日光、奥州)に匹敵し、同等の街道として発展しました。その後の街道も時代と共に、道筋は変遷、消失を繰り返していますが、現存し得いる道で合理性が高く、最も古い道を採用しています。今回は「出雲街道(東部Ⅱ)」よりの特別企画第一弾として、勝間田宿の会の主催で、3区を歩こう会を開催いたします。(文:案内資料より)

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左:出雲、右:京大阪道。坪井町東角に道しるべ

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 現在、津山郷土博物館の前に、「左・出雲」、「右・京大阪、左・一ノ宮」、右・出雲」、「明治16年8月建之、坪井町」と刻まれたあ石碑が建てられている。この石碑の文字はもう少し続くが、埋められているためこれ以上判読することはできない。この道しるべについて、今井三郎さん(故人)は『津山坪井町の歩み』の中で次のように取り上げている。
「坪井町一番地の東南の角、道路に沿って大きな津山石製の道標があった。いまは撤去され、津山郷土博物館に保管してある。高さ五尺(約1.5㍍)、幅九寸(約27㌢)の四角柱形の立派なもの。文字は赤松寸雲先生。時代のずれと舗装道路改修で廃棄された。文字は"右・京大阪、左・一ノ宮""右・出雲街道""明治16年8月建之、坪井町、志茂意平、田口半治郎、片桐秀吉"とある」

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