昔懐かしマッチ箱です。見覚えありませんか?
弥生の里文化センターに教えを請いに行くたびに、このマッチ箱の前でしばらく眺めてから事務室を訪問するのです。なんだか懐かしくてたまりません。これも津山の芸術です。
しかし、ローズはこんなに多くの種類のマッチ箱を出していたんですね。今でもマッチが置いてある店舗はあるのでしょうか?(2015年2月9日取材)
弥生の里文化センターに教えを請いに行くたびに、このマッチ箱の前でしばらく眺めてから事務室を訪問するのです。なんだか懐かしくてたまりません。これも津山の芸術です。
しかし、ローズはこんなに多くの種類のマッチ箱を出していたんですね。今でもマッチが置いてある店舗はあるのでしょうか?(2015年2月9日取材)
昭和20年代、河野磐さんが津山市民に映画を告知するため描いた映画ポスターもお借りして飾っています。
『津山に残るなつかしの映画チラシ』展 4/4日(土)~2015年6月7日(日)
(同時展示:河野磐 制作の映画ポスター)
映画が娯楽の王様だった時代、津山にも多くの映画館や劇場がありました。
今回は津山で上映された映画の広告チラシ(各映画館が作成した大正期~戦後作品までの貴重なチラシ。総数75点。)を展示しています。懐かしい映画館や映画作品のチラシで、当時の津山の庶民文化を振り返って楽しんでみてください。
また、昭和20年代、河野磐さんが津山市民に映画を告知するため描いた映画ポスターもお借りして飾っています。(2014年4月23日取材)
草加部の統合井堰、浄水場の取材で訪れた水道局応接間の壁にかかっていた写真です。随分古い写真なのに、既にパノラマでしっかりしたお写真です。もったいないので小田中の浄水場取材に使用させていただきました。この浄水場の建築年は昭和8(1933)年で、津山石が使用されていたそうです。構造 RC造 地上2階建て/設計者 磯兼権蔵(旧市役所設計者)。
現在の小田中浄水場は、新しい建物に建て替えられています。(2015年4月6日取材)
明治二十四年八月御届、出版、仝二七年七月訂正出版
明治24年1月調 ・東西町数 二町、 仝 大字 四十三 ◎津山西町 戸数二千四百二十七戸、人口一万一千零七十二人 ◎津山東町 戸数 七百五十八戸、 人口 三千四百五十五人
(2014年7月30日取材)
湿田の中でも、山西の西がわの低い山の間の棚田は雨が降ると水であふれ、その水が「あと口」から流れ出てはつぎつぎに下の田に落ちます。そのたびに水の落ちた所が土をおし流し少し深くほれてきます。そこを「あと下」とか「あとあな」と言いました。そのくぼみにはいつもフナやドジョウが集まるので、手あみやソウキを持ってとりに行ったものです。またそこには、カラスガイが生まれ、住みつきここで大きくなり、ときには10センチ以上にもなりました。そのカラスガイをつるのもとくべつの楽しみでした。
消えゆく山下校舎 1962(昭和37)年 ≪岡山県立津山高等女学校、岡山県立津山女子高等学校、岡山県立津山成美高等学校、山下校舎≫
1903(明治36)年の女学校開校以来、戦後の女子高等学校山下校舎と、美作の女子中等教育に大きく貢献したこれらの建物は、椿高下新校舎の完成を以て幕を閉じることとなった。
(資料提供:岡山県立津山高等学校)
今から約80年前(昭和10年頃)の岡山県立津山高等女学校
この地は津山城の外堀の一郭で南東には京橋御門があった由緒深い土地で、建物は昭和7年に完成し、而立館と命名されたが昭和36年同窓会館と改名一棟のみ残されています。
ドジョウは淡水産の小魚で、うなぎのような形をしています。大きいもので20センチ。口にひげがあり、味はあっさりして脂肪が少なくビタミンAが多い。
水の浅い底がどろのところに住み、危険を感じると水をにごらせてどろの中にかくれます。雨の前には水中からうき上がりぽつりと空気をはき、また空気をすって腸まで送る腸呼吸ををするおもしろい魚です。
ドジョは流れの少ないどろ土の深い所、ちょうど湿田のようなところがぴったりでした。ここはドジョウのいちばんのすみかです。
地元に残る、温泉街の古写真、東方向から 明治時代の撮影で押入の古川沿い、因美線の鉄橋近くにある明治時代の温泉跡です。(写真他資料提供:赤坂健太郎さん)
津山市出身で岡山市在住の赤坂健太郎さんが「苫田郡誌」で「小原と押入に冷泉があった。」とする記述を発見し、その謎を解くため紙面を通じて言い伝えなどを募ったところ、小原冷泉は郡誌の記録通り現在の大月公園南東側にあったらしく、近くの清水洋一さん宅では温泉の存在を証明する古い試料を大切に保管していたという。