
古い街道 しずな坂(押入)

明治時代に「押入」と「小原」に温泉があった。

山本神社(高野山西)

三宝荒神社(高野本郷)

湿田の中でも、山西の西がわの低い山の間の棚田は雨が降ると水であふれ、その水が「あと口」から流れ出てはつぎつぎに下の田に落ちます。そのたびに水の落ちた所が土をおし流し少し深くほれてきます。そこを「あと下」とか「あとあな」と言いました。そのくぼみにはいつもフナやドジョウが集まるので、手あみやソウキを持ってとりに行ったものです。またそこには、カラスガイが生まれ、住みつきここで大きくなり、ときには10センチ以上にもなりました。そのカラスガイをつるのもとくべつの楽しみでした。
冬の寒いときは、湿田の土に深くもぐっていたカラスガイも水がぬるんでくると浅い所に出てきます。そして貝がらを開きえさを含んだ水をさかんに取り入れ、消化しては吐き出します。だからあとあなには、よく見ると細かいどろの表面に小さいあなが2こならんで口を開けているのが見つかります。その小さなあながカラスガイの水をとり入れ口と出す口で、上からは見えないけれど、貝が貝がらを開いているところです。ここに何かをつっこむと貝はきゅうにからを閉じます。それを引き上げるとカラスガイがつれるというわけです。
山西の田んぼにシラサギがやってきていました。
カラスガイの大きさはしじみと比べてみてください。
溝の側には可愛い野花が咲いていました。(取材2015年4月9日)
冬の寒いときは、湿田の土に深くもぐっていたカラスガイも水がぬるんでくると浅い所に出てきます。そして貝がらを開きえさを含んだ水をさかんに取り入れ、消化しては吐き出します。だからあとあなには、よく見ると細かいどろの表面に小さいあなが2こならんで口を開けているのが見つかります。その小さなあながカラスガイの水をとり入れ口と出す口で、上からは見えないけれど、貝が貝がらを開いているところです。ここに何かをつっこむと貝はきゅうにからを閉じます。それを引き上げるとカラスガイがつれるというわけです。
つり道具はススキの穂の茎です。長いススキの茎のじょうぶなものを根もとから切り、穂についているものを取ると細いぎざぎざのある穂先ができます。はっぱも取るとまるで竹ざおのようにふしのある、ごく細いつりざおができます。このつりざおの先の細くてかたいところをカラスガイのふたつのあなの間にいれてくすぐるのだから、貝はびっくりしてからを閉じ、そのときそのカヤの穂先をくわえこんでしまいます。ゆっくりとカヤがおれないようにひっぱるとカラスガイはずるずると土の中から引き上げられてくるのです。
その手ごたえときたら。魚のようにぴんぴんはねないが、まっ黒でずっしりと重くグロテスクな大きな貝がとれるのです。
このように子どもたちは春がやってくると、ふごとカヤの穂のさおを持ち田んぼのあとあなをさがしての、魚つりならぬ貝つりを楽しんだものでした。
こうしてとったたくさんのカラスガイは、ゆでて身をとりはずし、みそににしていただきました。農家のだいじなたべものとしても一役かっていたのでした。
のどかな田園生活でしたが今は、こんな春のけしきやくらしは見られなくなって、それももう長く長くなってしまいした。
ナマズとカラスガイのこうかん
これは、大正5・6年の話です。
山西の子どもは、前に話したようにしてとったカラスガイを学校に持っていきました。上押入、下押入の子どもはカラスガイではなく、小みぞでとらえたマナズ子をバケツやビンに入れて学校に持ってくるのでした。そして、カラスガイ1つにナマズ子5匹というように、おたがいにこうかんするのが楽しみでした。
こうかんしてもらったナマズ子は、だいじに家に持ち帰り、今のようなよい水そうもないので金だらいにいれ、ついでに押入の川から持ってきたキンギョモなどの藻もいれて、えんがわにおいてときどきながめながらだいじにかったものでした。
そのナマズや魚にちょっとふれておきたいと思います。
春4月には、大川(加茂川)から、大きなナマズが卵をうむために、水路をむれになって上ってきました。親ナマズは、淡水藻の中に卵をうみますが、それがかえって2、3センチになるのが5月の初めです。それを子どもが手あみでとりました。わたしもその後、その季節の小みぞを観察して、ほんとに多くのナマズ子がいるのをたしかめておどろきました。
魚とりも楽しみでした。そのころは加茂川はもちろん、この山西を流れるかにこ川(高倉川)にもたくさんのナマズやウナギなどの魚がいました。
夏の日でり続きで水が少なくなると、ヤスや古い刀を持ってヨブリにいきました。ヨブリはたいまつをたいたり、カーバイドガスのガラスランプに火をともして川に出かけます。そして、川ぞこにねむっている魚をヤスでついたり、刀できったりしてとっていました。
また、9月の20日ごろ、
田に水がいらなくなると「いでおとし」といって、水を川へ落としてしまう日がありました。その時その水のなくなった用水路ではたくさんの川魚がとれました。ギギ、ホヤル、ウグイ、
ウナギ、ナマズ、シラハエ、オイカワ(ヘロ)、ドンコツ、などなど。バケツに1ぱいも2はいもとれます。
どこの家でも家族じゅうで出て、きょうそうで魚とりをしました。とれた魚ははらわたをぬいて、竹ぐしにさしすみ火であぶり、ホデ(ムギワラのたば)にさし天日でかわかしました。川魚のひものです。食べる時は、あめだきにしたり、またかんたんに火にあぶってしょうゆをつけて茶づけの友にしていました。とてもおいしくごちそうで、だいじな栄養にもなっていました。
今はナマズもほかの魚もめっきりへりました。大川(加茂川)にナマズがとても少なくなっています。川の護岸工事がすすんで、ウナギ、ナマズにはとくに住みにくくなったから。また、田に農薬を使うので魚も虫も死にます。ナマズもその被害を受けているからです。
そのころは、今よりたくさんいろいろな不便がありました。でも、このあたりの川といわず小みぞといわず、ナマズも魚たちもたくさんいました。それで子どもたちはみんなこのように自然に体当たりでとりくみ、そして自然をこよなく愛したものでした。
以上(文:1998年発行 高野小学校 むかし高野より)