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大津神社(真庭市)

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 由緒
 当社は正平4年11月8日に信州戸隠神社から御分霊を奉祀したと伝えられているが、氏神としての奉祀ではなく、何等かの信仰霊験によって勧請されたものであろう。古来から大津大明神と称し、開運、農業、商工業、諸芸能上達、結婚、病気、一家和合等諸方面に霊験あらたかであり、福運を授ける神として、全国に崇敬者をもっている。(文:岡山県神社庁HPより)(2020年8月9日撮影)

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日本一の石の鳥居と蒜山 郷原宿探訪(真庭市)

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郷原漆器のふるさと 郷原(ごうばら)宿(岡山県指定重要無形民俗文化財)
  郷原宿(真庭市蒜山西茅部)は、美作・伯耆両国を結び、大山参詣や牛馬市へ向かう人々が盛んに行き交った「大山みち」の宿場町で、戦前まで盛んに作られていた「郷原漆器」の産地集落として広く知られています。
 郷原漆器は主に栗の木を使い、輪切りにした生木をろくろで挽く独特な製法で椀や皿を作る実用的な製品です。その始まりは明徳4年(1393)など諸説がありますが、江戸時代には漆器の産地として広く知られ、地元勝山藩でも特産品として着目されています。
 技術改善や購買組合の設立で、大正時代末に生産量は最高に達しましたが、戦争による物資統制などで衰退、昭和20年(1945)の終戦ののち、まもなく伝統的な漆器生産は一度終焉を迎えました。
 そうしたなか、昭和時代末から始まった漆器復興の取り組みは、平成4年(1992)の「郷原漆器生産振興会」設立、岡山県からの郷土伝統的工芸品への指定、同8年の拠点施設「郷原漆器の館」(蒜山上福田)建設につながり、同18年には生産振興会の保持する製作技術が民俗技術として県下で初めて重要無形民俗文化財の指定を受けるなど高く評価され、蒜山地域に新たな活力を生み、さまざまな可能性の広がりを見せつつあります。
真庭市教育委員会 (文:現地看板より)(2020年8月22日撮影)(大山みちを歩こう会第6区

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蒜山ハーブガーデン ハービル(真庭市)

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 イナバ化粧品店さんで「蒜山にハーブガーデンがあるよ!」とお聞きしたので、早速行ってみることにしました。目的は蒜山大根と蒜山ハーブガーデンですが、インターを降りてすぐの「道の駅 風の家」で売られている大人気の蒜山大根は、残念ながら昼前にはすでに売り切れでした。
 道の駅 風の家から、ほどなく行くと蒜山ハーブガーデンに着きます。ここでは、涼しい風、雄大な蒜山の景色とハーブの香りに癒されました(2020年8月22日撮影)

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蒜山高原とアジサイの花 2020

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 2020年7月12日に曇りでやさしい風が吹いている蒜山にアジサイの花を観にやってきました。
蒜山高原センターから大きな観覧車が見えるジョイフルパークには大勢の家族連れの皆さんや若者が来られていました。また、道路沿いにはアジサイの花が見ごろを迎えていました。広々とした大自然の中で遊んだり、食べたり飲んだりワイワイ皆さん楽しそうでした。

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数珠回しなどの伝統行事を行う平安時代末期のお堂

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大御堂 -おみどうー
 大御堂が創建されたのは、寿永4年(1185)と伝わりますが、定かではありません。2018年度に実施した放射性炭素年代法による測定で、部材の一部は、12世紀末、平安時代後期に伐採されたものであることがわかりました。岡山県内最古の木材を使った建造物ということになります。
 当時、大御堂ほど大きいお堂を村だけで作ったとは考えにくく、京都の仁和寺の資本が入って建てられたものと思われます。また、大御堂は現在、「堂ノワキ」という場所に位置し、北側に「堂ノモト」という地名があることから、本来は現在地のやや北へ建てられていた可能性があります。
 建築された当初は、一辺が8間(約14.5m)あったものの、その後、江戸時代初期に3間に縮められたとも伝えられます。現在は吹き抜けですが、柱には、かつて板戸で仕切られていたことを示す跡が残されており、幾度かの再建・修復を繰り返しているものの、部材には室町時代以前に遡る古材も多く残されています。(文:真庭市観光協会HPより)(2019年10月9日撮影)

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美作の大庄屋巡り「福島家 福島善兵衛」

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福島善兵衛 大庭郡目木村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 福島氏は、もともとは鎌倉幕府のもとで、伊豆福島郷に居を構え北條高時(1303-1333)代に故えあって四国土州七條公に仕え、土州安芸郡、讃州三野郡託間塩生構城・豫洲国分寺金甲山居たと伝えられる。享徳3(1454)年長宗我部元影により落城となる。一族を連れて安芸を経由して、美作の国勝山高田城の三浦氏を頼り作州の地につき、三浦氏に仕えたことに始まる。・・・19代一信(伊織介)の時。
文亀年間(1501ー1503)高田城三浦貞連の元で、山名右近亮の守護する篠向城を陥落させ城代として入城した。以来、21代玄蕃允 一盛(-1526)、22代玄蕃允 満則(-1548)、23代玄蕃 盛親(一則)-1584)75年間 篠向城を守護した。(23代玄蕃一則を目木構の祖とする)
天正4年(1576年)毛利・宇喜多連合軍により勝山高田城主三浦が滅ぶ。福島・金田が守護していた篠向城も陥落し、城から逃れていたが、宇喜多の家臣・江原氏に仕えた。福島盛親(玄蕃一則)の子・七郎右衛門は秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従い帰国後高麗犬を米来神社に寄進した。城主江原は釜山で病没し、その後関ケ原の戦いで西軍が負け宇喜多は改易され、福島、金田も帰農した。
江戸時代に入り、森藩により、大庄屋となる。

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美作歴史ネットで訪ねた中世式内八社の秋祭り

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 2019年度美作歴史ネット地域研修会のお誘いで真庭市社の「式内八社」について学んできました。
式内社:延長5年(927)に完成した『延喜式』第9・10巻「神名帳上下」に記載された神社。美作11座(10社)、備前26座(21社)、備中18座(18社)
美作の式内11座(一宮中山神社、二宮高野神社、三宮天石門別神社、社八社)
―中世の遺産・文化が色濃く残る社へ―
 山々に囲まれ、清らかな水が湧く、自然豊かな社地域は、まさに日本の原風景。そんな社地域には、神社や御堂、石造物、城跡などの歴史遺産が数多く点在しています。
 平安時代、醍醐天皇の命で編纂された『延喜式』に記載された重要な神社は、「式内社」と呼ばれていました。『延喜式』に記載された美作国11の式内社のうち、社地域にはじつに8つが集中しており、古代から神聖な場所とされてきました。中世以降にも多くの記録に記載され、古い形をとどめる祭りや行事も残っています。
「式内八社」とは佐波良・形部神社(県社)、二宮(長田、兎上、壱粟・大笹、久刀神社)、横見神社の8つの神社の通称です。(文:式内八社の里めぐりパンフレットより)2019年10月9日撮影

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大寺山 勇山寺(真庭市)

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第三十三番 大寺山 勇山寺(いざやまじ)
  当山は、神亀三年(726)聖武天皇の勅願により、行基菩薩が六尺五寸の薬師如来を彫刻し、七堂伽藍を創建して国府大寺と号しました。実に1200有余年前にして、当国唯一の古刹でした。
 その後弘仁六年(815)十一月、弘法大師が来錫し、厄難除けのため、不動明王・矜伽藍童子・制多伽童子の三尊を一木より彫刻し安置されました。彼の成田山の姉妹作として、日本三体の一つです。
 不動尊は内に応病与薬の徳を秘し、外に悪魔降伏の相を現わし、現当二世に社会浄化の利益を施します。その彫刻は大師の御手よりなされたので、本尊の誓願深く籠らせました。故に、古今の名将や遠近の士女等、之を仰信して加護をうけられた人たちが多くいました。
彼の征夷大将軍は・源頼朝は文治五年(1189)に寺領百石を寄付し、山名忠政は赤松討伐のとき戦勝を祈り、また、天正十年(1582)領主牧家信は二十石を寄付して、堂宇維持のために充てられてました。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)

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第25回 花の山寺 桜と紅葉まつり

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 2019年11月3日~11月17日まで「第25回 花の山寺 桜と紅葉まつり」が真庭市にある普門寺で開かれました。11月9日に伺ったのですが、モミジがすでに紅葉しているもの、これから紅葉するもので赤、黄色、緑と色鮮やかでした。また、近くでは、そばや団子等の特産品の販売もありました。
ここは、一年のうちに数回の花を咲かせる「四季桜」でも有名なお寺です。今年、びっくりしたのは菅官房長官のお人形が出迎えてくれました。本当によく似ていました。(2017年5月14日取材

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大山みちを歩こう会(第6区)

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大山みちを歩こう会(第6区)立石~延助間(9.7㎞ 実質距離 10.5㎞)
 令和元年5月19日(日)、主催:出雲街道 勝山宿の会
■大山みちとは
現在の真庭市久世を中心として、東西には五街道(東海、中仙、甲州、日光、奥州)に匹敵する、重要な出雲街道(姫路~松江)があります。出雲街道は雲州と大和朝廷や京大阪を結ぶ、幹線となっていました。また南北には、古くより「大山みち」と呼ばれた古道があり、備中の国分寺跡を発し、足守より粟井温泉~掛畑~千升乢~加茂市場~尾原~鰻出~鹿出~落合~久世~三坂峠~禾津~藤森~延助~内海乢を経て、御机~鍵掛峠~伯耆大山寺に通ずる道があります。陰陽を結ぶ代表的な路線であり、人、物、牛馬、文化を運び、また、農民一揆の道でもあり、大山詣での信仰の道でもありました。現在ではその殆どは、一般道路に併合吸収されて昔の姿は止めていません。

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