2013年01月

「生誕100年 尾崎侃 作品展」後期展

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1F展示室 企画展     「生誕100年 尾崎侃 作品展」後期展
開催期間:1月26日(土)~2月24日(日)

入場料:500円(2F常設展もご覧いただけます。)
尾崎侃さん(1912-1988)は鏡野町出身の洋画家。
 津山中学校から岡山県師範学校二部へ進み、教師をしながら作品を制作してきました。 画歴は、今津屋橋のそばにあった南山焼工房の風景を描いた「南山焼風景」で昭和23年に日展初入選をして以来、25回の入選をしています。その他、、昭和25年には光風会展初入選をして、以後連続入選をするなど活躍されました。
 尾崎さんは、津山の洋画家の日原晃さんとも戦前から親しい仲であり、二人で山陰の夏泊や和歌山の潮岬をはじめ多くの写生旅行を続けてきました。

晩年にはお城山周辺や衆楽園など、津山中心部の風景を多数描いています。
作品は明るい鮮やかな色彩の作風が特徴で、多くの人を魅了してきました。

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三宝荒神社の秋季大祭(下高倉西字大多羅)

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 三宝荒神社(さんぽうこうじんじゃ)

 御祭神は須佐之男大神(すさのうのおおかみ)・祖先の御霊神・土地の守護神である。地区の吉方乾の山にある。平安初期の創建といわれ、御祭神の三神が三位一体(さんみいったい)・三面六臂(さんめんろっぴ)の御神像で鎮座(ちんざ)している。伊邪岐大神(いざなぎのおおかみ)の御子(みこ)須佐之男大神は五穀豊穣(ごこくほうじょう)・緒難疫病退散の神であり、三神による家内平穏・親族和睦・家運長久・子孫繁栄を司り、子どもの守り神としても厚く信仰されている。なお、むかし日照り続きでお米が取れないと「雨乞い」祈願をして、天水の恵を受けた荒神様の「雨乞い」は、たいへん御利益があったと語り伝えられている。

 平成7年、氏子たちの浄財(じょうざい)によって御社を新改築し、装いを新たにしている。主な祭典は、1月1日の祭旦祭(さいたんさい)。11月3日の秋季大祭は30年の歴史をもつ子ども神輿もでて賑やかである。そして12月31日は除夜祭を執り行う。このように地域の人たちの守り神として崇敬(すうけい)され親しまれている。(写真提供:お食事処 たかくら、文:高倉の歴史と文化財より)

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天穂日(あめのほひ)神社(津山市西中字天満)

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 本社は、新野西中の産土神であり、社殿によれば円融天皇の貞元二年(977)西中の天満山に社殿を創立して天穂日命を祀り、天満宮と唱えました。元禄二年には津山森藩の崇敬により本殿が再建され、明治六年には村社に列せられ、西奈加神社に改め、さらに明治十年に天穂日神社に改称しました「(美作神社資料」)。新野まつりには当社の神輿一体が新野山形の稲塚野に神幸せられる。
 各社にはそれぞれ神楽殿があり、この舞台を利用しながら発展したのが横仙歌舞伎である。
 まつりの終わったころから芝居の稽古がはじまり、氏子たちは地下芝居の役者となって芸をきそう。神域は各村々の最高の娯楽場でもあった。

参考文献:(勝北町誌・歴史めぐり資料)(神社と寺院)2012年10月26日取材

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津山教会は明治(1904)に建てられた建物です。

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(創立前史)

1879年9月、金森通倫は、同志社を卒業し、岡山伝道に専心することを決心して、岡山へ来た。ベリー等と共に県下に伝道を開始、津山にも伝道を拡大した。

(創立期)

1890年5月11日、美作国西北条郡津山町(津山町発足)大字美濃人町に津山教会を会員63名で創立。同7月には、貧民救助の活動として、裁縫を教会でする。

その後、1896年8月13日に美濃職人町より京町へ教会堂を移す。1902年から立石岐の名前も出てくる。1903年2月1日には、アメリカ大統領ルーズベルトより共助会に手紙が届く。ホワイト宣教師より伝達。同年9月、田町で教会堂の新築に着手。1904年5月24日、教会堂新築落成し、献堂式を行う。これが現在の会堂と境内地である。1908年1月5日の教会員総会には、土居通憲、立石岐、池村与六郎、田村かの、竹内のぶ等の名前が見受けられる。(津山教会100周年記念誌より抜粋)

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鳥觜智子さん喜寿記念の作品展

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 鳥觜智子さん喜寿記念の作品展が2013年1月10日~14日まで市立文化展示ホールで開かれました。鳥觜智子さんは元小学校教諭で、元田町保育園長さん(現在は顧問)です。日本画家の木田雅之さん(京都市)に教わりながら趣味で日本画を描き続けていらっしゃいます。友人でご自身も美作市で絵を教えていらっしゃる中尾明子さん(元中学校の教師)は、「日本画は素直で正直ですね。鳥觜さんはバックの処理方法が本当にお上手で、私も見習わなくてはいけないと思います。いい絵ですねぇ~本当に!」と話してくださいました。作品は42点で、日常接している園児の表情のスケッチ、また、旅行先で出合った風景のスケッチなども素敵でした。(2013.1.10取材)

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〔谷崎潤一郎〕今田屋旅館へ移る。(速日神社前)

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▲ここで(速日神社)谷崎潤一郎さんが家族で写真を撮っている。
現在この川では鯉が泳いでいて、下流では今でもシジミが採れるそうです。(2012.5.10取材)


昭和20年 12月29日 城内の今田屋旅館へ移る。
昭和21年(1946) 1月 1日 渡辺明氏が夥しい北海道の土産を持ってくる。 
1月 30日 津山の闇市に行き、今津屋橋南で1パイ5円のぜんざいを食べる。   
3月 6日 刑部に疎開していた内田巌画伯が逗留し、谷崎の肖像画を描く。
3月16日 京都へ引き上げるために上洛する。
5月 末 水島宅で送別会をしてもらい、家族ともども京都へ帰る。
8月初め 再び勝山に来て今田屋旅館で「細雪下巻」執筆、荷物を整理して勝山を離れる。


小野はるさんと何かあったらしく、今田ツネさんの所(もと今田屋旅館)に引っ越した。(2階が8畳3間と6畳6間を全部借り切って執筆していた。)
(文:郷土博物館)

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〔谷崎潤一郎〕水島呉服店さんとのエピソード

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 水島節子さんからお聞きしました。「勝山には、こっくりさんに聞いてから来たそうですよ。終戦前に来られたときは着物を着流しで歩いていたので当時は珍しく、また、おいしい物が好きな方だったそうです。」
 「ここからピアノの音が聞こえたので、谷崎さんが尋ねて来られたのが最初で、その後、姑がご馳走を作っておもてなしをしていたようです。また、谷崎さんはここの2階でも時々執筆していたようで、子どもが変なおじさんが来たら、だまらんといけん!と言っていたそうです。」今は息子さんの代で水島呉服は止めて司法書士事務所になっています。


 節子さんの姑で故水島芳子さんが谷崎一家を助けたことは有名です。
「水島家に谷崎さんのお気に入りの中之庄谷美智子さんが居たことも大きな要因ですが、水島芳子さんという心の大きい人が居なかったら勝山での谷崎家は随分困ったには違いない。」と見せていただいた雑誌コピーに書かれてあった。
食料だけではなく、水島芳子さんの太っ腹な大らかさが谷崎家に貢献したのです。(2012.5.13取材) 谷崎潤一郎とは


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〔谷崎潤一郎〕小野はるさんの離れに落ち着く

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昭和20年(1945) 5月15日 新聞記者で月田出身の岡成志の勧めで津山市八子の松平別邸に疎開。この間、岡氏は死去する。
6月 3日 岡未亡人から勝山に貸間があると知らせてくる。
6月 4日 土井武氏の案内で新町の小野はる氏の離れに決める。
7月 7日 勝山に着き、新町の小野家離れに谷崎夫婦と娘が入る。
後に妻松子の妹2人、松子の従兄弟らも疎開して、近くの呉服屋2階に住む。「細雪」の執筆に取り組む。原稿の写しを野崎益子女史が頼まれた。
食料の調達には福谷の須田伸治郎氏の世話になる。
中町の呉服店水島喜八郎氏と深く交流した。
下町の醤油業河本はな氏とも交際した。
8月13日 永井荷風が谷崎を訪ねてくる。15日には帰る。(疎開日記より)


旦酒店さんから伺ったお話

 勝山は水の綺麗なところで、昔は井戸水が綺麗だったので豆腐と酒を造っていました。酒屋も2軒ありましたが、今は辻さん1軒だけとなりました。それに宿も9軒ありましたが、今は寝泊りだけで2軒しかないのです。
 谷崎さんが勝山に来られたときの姿は、ボロボロの汚い着物だった。それに、沢山の原稿の入った「こおり」を大八車に積んできて近所の旅館の土蔵を借りて荷物を入れたとのこと。また、谷崎さんは金が入ったら大盤振る舞いをしていたそうで、普段は午前中執筆、午後は奥さんと川沿いを散策していたそうです。
 エピソード:小学校の教師になるために勉強していた野崎ますこさんは書が上手だったそうで、谷崎さんの書生を務めることになり、テストを受けたのですが、そのテストがユニークだったそうです。なんでも、奥さんとて書斎には上げないのですが、野崎さんを先に上らせ下からみて、足袋の白さ(足が綺麗かどうか)を見ていたそうです。勿論、野崎さんは無事合格して書生をつとめたそうです。(2012.5.10取材)


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谷崎潤一郎と勝山の町

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都わすれの記(2012.5.10取材)
勝山町は旭川の上流なる山峡にありて小京都の名ありといふ、まことは京に比すべくもあらねど山近くして保津川に似たる急流の激するけしきの嵐峡あたりの面影なきにしもあらざればしか云ふにや、街にも清き小川ひとすぢ流れたり、われらは休業中の料理屋の離れ座敷一棟を借りて住む、二階の六畳二間を書斎にあてゝ故帝鴻銘翁が短冊に書したる有 人對 月數 歸期 の七字を柱に懸けたるは、此の句恰も今のわが身にふさはしければなり、あゝわれ齢六十路におよびてかゝる邊陬に客とならんとは、げに人の運命ほど測り難きはなし
 なつかしき都の春の夢さめて
  空につれなき有明の月
 まどの戸をあくれば入り来やまざとの
  人に馴れたる雀うぐひす

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津山に谷崎潤一郎、東山魁夷が来ていた。

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(2012年6月16日取材)愛山松平家墓所の古写真

 津山市田町にある『寿司 よしひら』の得能さんのお宅には、貴重な物が沢山あります。そもそも得能家は秀康を祖とする越前家の第四代目の宣富公が、四国伊予の国(予州)から津山藩の初代として津山に入ってきた元禄11年(三代目の光長の時代に松山にいた)に、殿様に伴って古参取立てで来たのがルーツだそうです。

☆得能家(寿司 よしひら)に今なお伝わる資料が残っている。その中の一部を抜粋!

 得能良平さんの祖父が、松平家務所に家族で住み宕々庵の維持管理全般をしていた時、松平氏の親族 渡辺明氏(渡辺明氏は松平氏の弟であるが、渡辺家に養子に行っていた。谷崎婦人の松子さんと渡辺婦人の渡辺里子さんは姉妹)の縁で谷崎潤一郎が津山にやって来た。その時の『備忘録』が残っている。

 また、得能家(現よしひら)に東山魁夷が訪れていた。その他地図や雑誌、写真など諸々の資料。

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