勝北郡古吉野村 村誌

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諏訪神社を取材するにあたって、宮司の末裔である出雲井隼麻さんに古吉野村の歴史をお聞きしてきましたので紹介してみます。(明治24年4月石川秀助筆)

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勝北郡古吉野村村誌(古吉野村について)

古吉野村について
明治5年(1872)4月 「石生村」が分かれて「上石生」と「下石生」となる。
明治5年(1872)4月 「上石生」と「下石生」が合併して「石生村」に戻る。
明治22年(1889)6月 河原、石生、下町川の三ヶ村が合併して「古吉野村」となる。
管轄沿革
大字河原地区について 古くは不詳
文治元年(1185)~
慶長8年(1603)
古吉野村河原は、419年間神田(地域)にある16町の諏訪神社を大宮司出雲井家が代々所領、領掌している。その出雲井家の譲地は源頼朝の寄付であるといわれている。
元歴元年(1184)~
正治2年(1200)
その後、7年間は当国の梶原景時の長男(影秀)の領地となっている。「影秀」は源頼朝より美作国の守護職を与えられている。
元久2年(1205)3月~嘉歴元年(1326) 北条義時直臣の二階堂法眼より7代「道基」まで当領地を所領。その後、播磨国赤松則村が所領している。
正平19年(1364)より 山名時氏が所領。
元中19年(1384)より 赤松則義が所領。
嘉吉元年(1441)より 山名教清の守護が所領。
応仁元年(1467)より 赤松正則の所領。その後、美作国勝南郡三星城城主後藤氏が領主となる。
天正7年(1579)より 小早川秀秋に属す。
慶長8年(1603)2月6日~
元禄10年(1697)8月2日
94年間森忠政の封地となる。
慶長9年(1604) 森忠政が諏訪神社に倉米1石を寄付し社領する。
元禄10年(1697)より 森忠政に跡継ぎができず廃藩、津山城主は松平氏となる。石高は18万石から5万石に減石される。そのとき古吉野村は、松平の封地から離れ、徳川幕府直轄(幕領)となる。旧幕府代官所が支配。
享保15年(1730)~明治4年(1871) 上野国沼田城(栃木県沼田市)城主土岐氏の所領となる。
明治4年(1871)~明治5年(1872) 群馬県の所轄となる。
明治5年(1730)~明治9年(1876)4月まで 北條県(ほくじょうけん:一時岡山県の県北(美作国)は北條県として独立した県となった。)の管轄。
明治9年(1876)4月より 備前国岡山県の管下となって現在に至る。北條県は廃止。
大字石生地区について 古くは不詳
室町時代 播磨国赤松氏に属していた。
元禄9年(1696)まで 大字河原地域に属す。
元禄10年(1697)~明治元年(1867) 旧幕府代官所の支配となる。
明治元年(1867)~明治5年(1872) 石生地区のみ久美浜県の所轄となる。久美浜県は1868年(慶応4年)に丹後国、丹波国、但馬国、播磨国、美作国内の幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された県。管轄地域は、当初は現在の京都府北部、兵庫県西部、岡山県東北部、のち京都府北部に分布していた。県庁は旧久美浜代官所(現京都府京丹後市)に置かれていた。
明治5年以降 大字河原地区と同じ。
下町川地区について ほぼ石生地区と同史であるも、久美浜県には属しておらず、河原地区と同じ支配を受け現在に至る。
名山について
加佐美山(鏡山) 高さ20間、周囲13町で、古吉野村の東方に位置し、郷社(1)諏訪神社の旧跡である(現.河原275)。中央に四方60間の平地があり、廻り2丈あまりの松樹があった。「加佐松」と命名されているも、明治3年(1870)8月の暴雨のため倒れてしまい、それ以降全地に松やや檜などが生い茂ってしまった。
注(1)「郷社(ごうしゃ)」とは、「社格(神社の格付)」のひとつ。明治4年(1871)太政官布告により全国の神社は官社と諸社に大別され、前者には各大・中・小の官幣社と国弊社、および別格官幣社、後者には府県社・郷社・村社・無挌社の区分があった。ただし昭和21年(1946)神社の国家管理と社格制度は廃止されている。
物見ヶ畝 高さ5丈(15.15m)あまり、周囲20町で、古吉野村の西南に位置し、東西に山脈形状で連なっていた。松樹はまばらで少なく、のぼりやすく耕地を経ての登れた。
神社・旧跡について
諏訪神社のあと(移転前) 字出雲井の加佐美山(鏡山)に東西25間、南北60間が溝の段であった。東西北の三方に築地堀の跡があるも、現在は畑地となっている。諏訪神社は旧惣社大神宮の供祭といわれている。大宮司の「諏訪豊前守安盛」は文治年間(1185)前より古吉野庄石高七千三百石を所領として、美作守の租税集めに協力したと伝えられる(安土桃山時代以前は石高制は無かったため、神社仏閣などの受け持つ範囲を示したものと思われる。)
諏訪神社(移転後) 広戸風の影響を避けるため現在の本尊に移転。東西28間、南北60間、面積1680坪。古吉野村の東方に位置する。古くから大国主神を崇祭し、古吉野村の7里四方の氏神としている。領主の赤松則村が社領を寄付、赤松は三種の神器である鏡やその他多くの宝物も寄贈している。古くから年中の祭典が催され、なかでも旧9月17日より20日までを前祭、21日より23日までを後祭として盛大な祭典が催されていた。その祭典時は神官は社外へ出ることが禁じられ、氏子についても仕事が禁じられた。その期間は派手なことはせず、静かに神に祈るべしとなっている。旧9月20日をもって、総社の祭典日と設定している。天正年間(1573~1592)には当時の領主後藤元政が社を再建している。
松尾山香爐寺 松尾山の東西100間、南北60間で古吉野村の北部に位置、北吉野(現奈義町)にまたがっている(現.河原廣畑)。天文元年(1532)の国乱時、松尾山香爐寺を乗っ取り、陣を構えた出雲の尼子軍総大将三吉安芸守と勝北郡の城主有元遠江守ほか広戸一族との壮絶な合戦が有名である。そのとき、戦死した兵士をねぎらう意味で香爐寺付近を「合戦場」と命名した。また、香爐寺の本尊が字寺谷観音堂だといわれている。その他菊松寺も古吉野村の神宮寺であった。現在はどちらもその史跡は残っていない。

※明治24年4月石川秀助筆

美作の国の [歴史]