八幡神社(津山市新野山形字宮山)
天平十年(738)美作守大伴兄磨のとき、豊前国(大分県)字佐八幡宮の分霊を勧請し、上宮八幡宮と唱えたという。祭神は品陀和気命(応神天皇)・大雀命(仁徳天皇)・天御中主命の三神をまつり、相殿に足仲彦命(仲哀天皇)・息長帯比売命(神功皇后)をまつる。(美作神社資料)
天平十年(738)美作守大伴兄磨のとき、豊前国(大分県)字佐八幡宮の分霊を勧請し、上宮八幡宮と唱えたという。祭神は品陀和気命(応神天皇)・大雀命(仁徳天皇)・天御中主命の三神をまつり、相殿に足仲彦命(仲哀天皇)・息長帯比売命(神功皇后)をまつる。(美作神社資料)
武内神社は上野田字市場にある。「美作神社資料」によれば、祭神は武内宿禰、相殿は誉田別命(応神天皇)という。文化七年(1810)の創建であって、最初は高良大明神と号した。明治五年野田上下の氏神であった西宮八幡宮の氏子を離れたので、八幡神社の祭神の分霊を合祀して、武内神社と唱え上野田の産土神としたという。(勝北町誌・歴史めぐり資料より)2012.10.2取材
新野西下の産土神であり、社伝によれば長暦元年の創立、菅原道真公を祭神とし天満自在天神と唱えられた。明治六年に新野神社として改称して村社に列し、明治九年天満神社と改めた。新野まつりには当社の神輿一体が新野山形稲塚野に神幸し、祭典が終わったのち山形八幡神社から本社の神輿にお鏡餅一重と小餅十二個を苞に入れた「苞餅」が与えられるのが古来からの慣例である。(勝北町誌・歴史めぐり資料より)2012年10月26日取材
地蔵院をお尋ねして谷崎潤一郎さんが、一時疎開していたという「宕々庵」(とうとうあん)のことをお聞きしてみましたが、もはや、写真も資料もないとのことで残念でした。今は、影も形もありませんが、地蔵院内にある愛山廟の前にダンジリ庫が建っているところにあったそうです。写真からうっすらわかるでしょうか?この写真は得能さんからお借りしたものです。記録では、庭には梅とつつじ、キリシマが植えられていたそうです。
誰か写真をお持ちではないですか?(2012.6.20)取材、前回の取材はこちら
日本原の産土神で、昭和三十三年十一月二日に大吉の広戸神社と新野東の二松神社の分霊を勧請して、日本原神社を創建しました。(勝北町誌より)2012年11月14日取材
「加茂町史」によれば、もとは若王子権現と唱え、勝加茂西上(現上村)・勝加茂東原(現原)・勝加茂東坂上(現坂上)の三ヶ村の産土神で、文暦元年創建と伝えられ、明治のはじめにいまの社号に改めました。神社明細帳や明治以降の文献では祭神を下照姫命としています。(勝北町誌「神社と寺院」より)2012年10月25日取材
本山寺の枝垂桜と逆木櫻を一度見てみたいと足を運びました。境内地は四千二百坪、十余棟の堂塔伽藍は、昔に変らぬ面影を伝えています。ここは、国指定文化財、本堂(1350)、三重塔(1652)、宝筐印塔(1335)、県指定文化財、常行堂(1519)、御霊屋(1652)、仁王門(1686)、長屋(1845)、宝筐印塔(1399)、鬼面(1362)、六角型舎利塔(1344)、絹本著色両界曼荼羅図二幅(鎌倉末期)があります。(詳しくはこちらで)
牛頭天王
東作誌に牛頭天皇は「西の尾に在 西分の氏神 本社 三尺二寸四方巽向 拝殿二間二間半 鳥居木 社地五段許 祭日 九月十八日」と記されている。
祭神は須佐之男命(すさのうのみこと)で疫病災難よけ、授福の守護神として祀り信仰されている。地元では天神さんと呼んでいる。(文:高倉の歴史と文化財より)2012.12.16取材
和加美神社(わかみじんじゃ)
水嶋隆之宅の東側のお宮が和加美神社で、地元では「ワカミヤ様」と呼んでいる。延享4年(1747)、高倉に米井庄助という人が生まれ、幼少より利発で学問や俳諧等に優れ、村内はもちろん近隣地まで有名になり、学問を教えていたが47歳で病没した。明治14年、神としての格式を賜り和加美神社が建立された。(2013.2.20)(文:高倉の歴史と文化財より)
地神様
高倉神社の前に自然石に「地神」と深く刻み込んだ地神様がある。地神様は土の神で農民を守り稲の生長を助け、豊かな実りをもたらす農業の神として祀られている。地神様の祭りは春、秋の彼岸の中日に近い戊の日にあたる社日に行われ、この日は農作業を休むことになっていた。建立年代は刻まれてないが、天保から明治末年にかけて各地で建立されている。現在は高倉神社の祭典にあわせて祀っている。
2012.12.16取材(文:高倉の歴史と文化財より)