中山神社の台所 厨(クリヤ)神社

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御祭神 宇氣母智命,譽田別尊,言代主神
御神徳 五穀豊穣, 料理・調理
由緒 
 本神社は和銅6年4月に弓削村池尻に御鎮座になり、弓削庄の二宮大明神と崇められ、弓削庄三社の一である。
 延宝5年9月、領主森長成の命により現在地に遷座した。『作陽誌』によると往古中山神社の御饌神として15座30名の宮座による特殊神事があった。本神社の氏子は旧弓削庄27か村であったが、現在では上弓削・下弓削・西山寺の3か村である。
 明治2年厨谷神社と称し、明治6年村社に列格して厨神社と改称。同14年郷社に列格。同44年神饌幣帛料供進神社に指定せられた。(文:岡山県神社庁HPより転載)(2023年2月8日撮影)

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2023年2月8日、「美作の歴史を知る会」主催の神社めぐりに参加して来ました。この厨(クリヤ)神社は、美作国一宮の中山神社に縁の深い神社だと教えていただきました。なんでも「中山神社の台所」だそうです。

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参道神門                    鳥居

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参道                      拝殿

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手水舎                     社務所

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境内

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拝殿                      拝殿

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拝殿                      本殿

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本殿                      絵馬

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本殿                      本殿

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本殿

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ご由緒
厨神社は、口碑によると和銅6年(西暦713年)4月、美作国久米郡弓削郷下弓削厨谷に鎮座され、同郷下神目村志呂神社、福渡村八幡神社とともに『弓削郷三社』と崇められてきました。

『作陽誌』によると、山川部大菅山の條に「大菅山在二ヶ村古例毎年正月十六日弓削七ヶ村の人猟此山獲鹿二頭献具中山神社今絶云々」とあり、また『志呂神社文書』には「大菅山中央以上に鹿を獲れば此を下弓削村厨神社に於いて屠割す、故に厨谷と称す厨神社あり云々」と記されており、つまり当社は美作一宮中山神社の御饌神(食事を司る神)として鎮座し、殊に料理調理の守護・五穀豊穣の守護神として崇敬されました。

鎌倉時代、当社の名田開発により集落が形成され、開拓鎮護の神として村人の崇敬を受け、15座30名の宮座による特殊神事が伝えられていましたが現存していません。

江戸時代初期、藩主森長嗣公は、弓削の大庄屋・河原善右衛門の建言で、洪水の危険がある厨谷から現在の畑後成の丘上に遷座を命じ、延宝5年(西暦1677)9月3日、旧社地から現在地へ遷座しました。(文:厨神社HPより転載)