奈義町総合運動公園
奈義町の東部、国道53号線から800m南にあります。野球場、多目的広場、テニスコート、グラウンド・ゴルフ場、スケートボード場などが運動公園にあり ます。また、海洋センターには体育館とプールがあります。中でも野球場と周辺は、映画「バッテリー」のロケ地にも使われました。
野球・テニスコート・プールの他に、グランドゴルフ場まであり、老若男女が楽しめるところです。お弁当を持っていくと、一日中楽しめそうです。(2014年10月7日撮影)前回の取材はこちら
奈義町の東部、国道53号線から800m南にあります。野球場、多目的広場、テニスコート、グラウンド・ゴルフ場、スケートボード場などが運動公園にあり ます。また、海洋センターには体育館とプールがあります。中でも野球場と周辺は、映画「バッテリー」のロケ地にも使われました。
野球・テニスコート・プールの他に、グランドゴルフ場まであり、老若男女が楽しめるところです。お弁当を持っていくと、一日中楽しめそうです。(2014年10月7日撮影)前回の取材はこちら
当社の創建年月は不詳であるが、河原鏡山に古吉野庄の総社として創建されたと伝われている。
天平5年(733)9月20日庄内の住民が集合して大祈祷を行って以来、この日を大祭日定めたとされ、当日は縫い物、畑仕事を禁じられた。
長久3年(1042)古吉野庄の氏子の総意により、信州諏訪大社の御分霊(建御名方命)を勧請し、合祀した。
安元2年(1176)広戸風の大烈風で本社が大破したので、移転地を信州諏訪に似たところとして、風害の少ない現在地に再建した。(御祭神 建御名方命 速秋津姫神 素盞嗚命 譽田別命 大國主命
倭建命 大己貴命)
神社の境内にある神木(びゃくしん・いぶき)は本社移転時に諏訪豊前守藤原安盛宮司が手植えされたと伝えられ、樹齢800年の神秘な樹姿を見せる。また、十郎、徳丸(村人)の蛮勇で河原田圃開発の祈祷に使った伝承を持つ「雨乞い石」がある。(文:岡山県神社庁HPより)
大別当城跡は、大別当山の尾根伝いに残る中世の山城跡です。
南北に細長い山頂部に曲輪(くるわ)がいくつも並ぶ連郭式(れんかくしき)と呼ばれる構造で、堀切(ほりきり)も確認できます。東西は急峻な斜面で、自然の地形を巧みに利用しています。
展望台からは、町内に残る山城をはじめ、津山市、美作市の山城も遠望でき、群雄割拠の緊張感を偲ばせる遺構です。
また、麓のイムラ遺跡(高円構)は、城主、家臣団の暮らした跡と伝わっています。(文:案内板より)(撮影2016年1月3日)
神崎家は備前和気郡の出身。浦上家の同族と伝承される。祖父三郎兵衛茂範が森藩の値段奉行となり津山南新座に移る。
神崎与五郎則安 赤穂浪士四十七士の一人(竹平と号す)
父 又市光則(後半右衛門と改名)値段奉行十三石三人扶持
元禄3年(1690)ごろ浪人し黒土に移住、寺子屋を開く
母 先妻死後、勝間田下山六郎兵衛の娘
寛文6年(1666)津山で生まれ津山藩に仕え父と共に藩を辞し黒土に移る。年代は不詳であるが五 両三人扶持五石(役料)
父墓碑 本然院理空猶水居士
享保2年(1717)8月2日 光則・光隆建之
母墓碑 悟心妙徹信尼
享保15年(1730)9月8日 妻76才 光隆建之
「光隆」については諸説あるが与五郎の弟と推定される。
昭和61年3月 勝央町文化財保護委員会・勝央ライオンズクラブ(文:案内板より)(2016年2月3日撮影)
間山(はしたやま)高福寺の由来
開基は推古天皇の頃(592~628年)で聖徳太子によって、用明天皇紗勅願所として創建したと言われる。
天平9年(737年)僧行基は当地を訪れ「上見てもまた下見ても天の川 中にそば立つはした山かな」と詠じてその景勝を称し、その後勅命を受けて、七間四面の金堂、五間四面の堂宇を建立して仏像を奉納するなどした。淳和天皇(820年代)の一時期この寺院内で国府の政務が行われるなどして繁栄を見たが、歳月を経て老朽化、衰微をたどりつつあった一条天皇の頃(986年~1011年)書写山の性空上人によって再興がはかられた。新たに山王七社を勧請、弁財天を祀り、数十のおよぶ僧院などを造り、東西に浴室を設け、山門を造営して金剛力士像を安置した。以前をしのぐ繁栄をもたらした。承久の(1221年)で後鳥羽上皇が隠岐島に配流の途次、本寺に参詣された。
天正年間(1570年代)、三星城合戦の余波を受けて、大半が消失してしまった。(これについては、自然発火による火災説がある。)(2013年12月23日撮影)
出雲街道は出雲往来ともよばれ、古代には畿内から山陽道を通り播磨から出雲を結ぶ官道として機能していました。勝間田には古代の勝田郡衙が置かれ、古来人々や文物が行きかう交通の要衝として栄えていました。
江戸時代に入ると、出雲松江藩や美作勝山藩・津山藩などの諸大名が江戸への参勤交代の交通路とするため、出雲街道が本格的に整備されていきます。それにともなって、各地に宿泊や人馬の継立てを行う宿場が設置されていきます。
勝間田は参勤交代の宿場町として整備され、美作七宿のひとつとして発展しました。勝間田宿には、大名や供のものが泊まった旅舎が二つあり、主に津山藩主が宿泊した下山本陣と、松江・勝山藩主、宮家・勅使が宿泊した木村本陣がありました。
アルプスの民家をイメージした木造2階建ての「那岐山麓・山の駅」は、木造ならではの温かみに満ちた癒しの空間。建物内には特産品ショップ、レストランを はじめ様々な体験・研修施設が整っています。また、この山野草公園は、那岐山麓一帯に自生している山野草を保護し、種を保存するために公園内に移植された ものです。子供から大人まで楽しめます。(2012年7月9日撮影)以前の取材はこちら
2016年1月1日那岐山麓「山の駅」付近で見た初日の出です。津山市内では濃霧の為日の出を見るのは難しく、急遽奈義町の山の駅へと急いでみたら、身動きできないくらいの多くの車と大勢の人々でした。午前7時27分頃に出てきたご来光は、神々しく輝き皆さん思わず感嘆の声を上げていらっしゃいました。こんな輝ける年となりますよう取材に頑張りますので、本年も何卒よろしくお願いいたします。
諏訪豊前守安盛墓と諏訪神社跡地が勝田郡勝央町古吉野(現.河原、石生、町川)にある。
文武4年(700)河原鏡山に小吉野庄の総社として神社を創建。天平5年(733)旧9月20日庄内の住民(開墾者)が集合して河原田園開発の大祈祷を行う。長久3年(1042)小吉野庄の氏子の総意により、信州諏訪大社の御分霊(建御名方命)を歓請した。このとき諏訪安久(清和天皇の皇子貞純親王九代の孫室賀二郎盛扶の三男)が順行、諏訪豊前守定信宮司となって平重盛の子女を妻に迎える。安元2年(1176)広戸風の大烈風で本社が大破、諏訪豊前守安盛が風害の少ない現在地に移す。建久3年(1192)諏訪豊前守安盛に至り、源頼朝より小吉野庄地頭職の相談役として任命される。その後、応永7年(1400)安久より六世を経て男子なく、日野大納言時房の子兼信を養子とし、結婚と同時に性を出雲井と改め、式部太夫兼信とする。(文献:美作名門集)(2015年6月9日・10月12日撮影)
諏訪神社を取材するにあたって、宮司の末裔である出雲井隼麻さんに古吉野村の歴史をお聞きしてきましたので紹介してみます。(明治24年4月石川秀助筆)