取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「堰」で検索した結果,17件の記事が見つかりました。

美作の大庄屋巡り「木村家」

kimura-h-4.jpg

木村家 木村治右衛門 勝南郡勝間田村 森藩~甲府領 完宿藩
大庄屋まで
 木村氏の出自は諸説ある。その一つは毛利氏の家臣龍門帯刀が帰農し、その子孫与左右衛門が木村を称したといわれるものである。
大庄屋として
 森藩の助成で、河原の多い勝間田の低地の大規模な開田工事が行われたとき、下山和十郎、木村治右衛門は、現在の新町、当時中河原と呼ばれた荒地を開発し、新田、井堰を造成した。その功績によって下山家は津山藩の本陣に、木村治右衛門は大庄屋に任命され、木村家は勝山藩、松江藩の本陣、脇本陣を勤めた。

美作の大庄屋巡り「木村家」の続きを読む

美作の大庄屋巡り「福島家 福島善兵衛」

fukushimake601.jpg

福島善兵衛 大庭郡目木村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 福島氏は、もともとは鎌倉幕府のもとで、伊豆福島郷に居を構え北條高時(1303-1333)代に故えあって四国土州七條公に仕え、土州安芸郡、讃州三野郡託間塩生構城・豫洲国分寺金甲山居たと伝えられる。享徳3(1454)年長宗我部元影により落城となる。一族を連れて安芸を経由して、美作の国勝山高田城の三浦氏を頼り作州の地につき、三浦氏に仕えたことに始まる。・・・19代一信(伊織介)の時。
文亀年間(1501ー1503)高田城三浦貞連の元で、山名右近亮の守護する篠向城を陥落させ城代として入城した。以来、21代玄蕃允 一盛(-1526)、22代玄蕃允 満則(-1548)、23代玄蕃 盛親(一則)-1584)75年間 篠向城を守護した。(23代玄蕃一則を目木構の祖とする)
天正4年(1576年)毛利・宇喜多連合軍により勝山高田城主三浦が滅ぶ。福島・金田が守護していた篠向城も陥落し、城から逃れていたが、宇喜多の家臣・江原氏に仕えた。福島盛親(玄蕃一則)の子・七郎右衛門は秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従い帰国後高麗犬を米来神社に寄進した。城主江原は釜山で病没し、その後関ケ原の戦いで西軍が負け宇喜多は改易され、福島、金田も帰農した。
江戸時代に入り、森藩により、大庄屋となる。

美作の大庄屋巡り「福島家 福島善兵衛」の続きを読む

別所山 無量壽院 安養寺(鏡野町)

anyouji-k19.jpg

 当山の開祖は、嵯峨天皇の時代嵯峨山と伝えられていますが不詳です。播磨の三木城主別所家の菩提所として再建され、別所寺と呼ばれていました。
 天正八年(1580)正月に三木城が落城し、別所長治自刄の翌年、宇喜多和泉守直家により別所山安養寺と命名されました。慶長の初め、快鏡上人により再興され、度々の災禍の後、弘化三年(1846)に日笠快道上人が新住され、私財をもって本堂、庫裡を再建され、宝筺印塔を建立、西国三十三観音を勧請、野津羅井堰築堤して水路を開くなど、中興の祖となられました。久田村安養寺の略歴です。
 平成五年、もとは旧奥津町土生にあり、奥津ダム建設のため当地を得て再建、平成十年四月に落慶しました。
 本尊は、阿弥陀三尊です。他に鎌倉後期の等身大十一面観音、室町期の不動明王ほか、聖観音、弁財天、毘沙門天などを祭祀してあります。西国三十三観音は南の山、岡山から北の山、天王ノ木にかけて勧請し、遊歩道も整備してあります。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)(写真:2019年9月16日・20日)

別所山 無量壽院 安養寺(鏡野町)の続きを読む

会所 山田家(一方)

uetsukike12.jpg

 山田家は通称を会所(かいしょ)と呼ばれているそうです。お殿様がお城を出て村人の意見を聞きに庄屋の植月家に来られた時に、村人はここで衣服を整えて向かいの庄屋の家に出向いていたそうです。山田家によれば、山田盛勝が福島正則に仕えていたが福島没収後、一方村に住居し百姓となる。後、山田紋次郎が森公より町年貢取り立て役を仰せつかっている。その末裔、山田虎吉は佐良山村会議員をつとめ、明治22年には嵯峨井堰組合より頌徳状を受けている。(2019年8月18日・24日撮影)
※会所(かいしょ)
集会や事務の行われる場所。平安時代以後、貴人の邸の客殿をこう呼んだが、江戸時代には、幕府・諸藩の行政、財政上の役所、町役人、村役人の事務所、商取引、金融関係の事務所に、この名がつけられた。

会所 山田家(一方)の続きを読む

皿川・広戸川に設置してある「ゴム堰」

fukudanoiseki1.jpg

 2019年7月3日皿川の近くを車で移動していて、ふと川を見ると珍しいものを発見して撮影して来ました。なんでも、ゴム堰と言われる種類の堰でめずらしいものです。ゴムのチューブに空気を入れて膨らませて水を堰き止めます。
 県民局の方にお聞きすると、平成10年の災害の時に固定堰があったのですが、皿川の流域が被災して堰があふれ大災害になったことで、固定堰をゴム堰に変えたそうです。(改修工事の一環として県が工事)水量が少ない時には、膨らませて水を取る、洪水で水位が上がった時には自動でしぼむ、そうすると水量が多く流れるので水が溢れないすぐれものだそうです。

皿川・広戸川に設置してある「ゴム堰」の続きを読む

お福大明神(一方)

嵯峨井堰1.jpg

お福大明神 -津山市一方-
 嵯峨井堰の土手は、何度築いてもくずれてしまう。困りはてた村人たちが相談したあげく、水神様のたたりだから人柱をたてようということになった。四方八方手をつくして、人柱になってくれるむすめを探したが、どうにも見つからない。
 そこへ、川向こうの院庄村のひゃくしょう八助のむすめお福が、十何か村のおひゃくしょうのためならと名のり出た。十六の美しいむすめであった。
 お福が人柱となってから、土手がくずれることは一度もなく、村人たちは小さなほこらをたて、お福をまつった。これがお福大明神で、今は佐良神社にある。(文:『岡山の伝説』より)

お福大明神(一方)の続きを読む

小田中浄水場

odanaka_suidou_52.jpg

2017年6月15日、小田中浄水場の歴史や役割を、可愛い小学生と一緒に勉強してきました。
 2017年4月『小田中浄水場』の浄水施設が大幅に新しくなりました。平成22年の計画着手から約6年の機関と30億円あまりの費用を投じ、施設の更新が完了しました。津山市の水道が創設された昭和9年に建設された小田中浄水場は、市の発展に合わせ幾度も拡張工事や改良工事を行ってきましたが、50年を経過し老朽化の著しい施設も存在し耐震性に問題があったことから大規模な施設の更新を行いました。
 しっかりとした耐震性を備えて地震災害に強い施設にするとともに、夏場に時折発生するかび臭をより確実に取り除けるよう、大幅に能力を高めた「粉末活性炭」による脱臭処理施設を設けたことで、更に良質な水道水をお客様へお届けできるようになりました。(2015の取材の様子はこちらから)(2017年6月15日撮影)

小田中浄水場の続きを読む

坂元井堰(津山市山方坂元地内)

いせき5.jpg

 築造年月は明確でないが、東一宮、東山方の地には条里制の遺蹟を示す凡そ6町四方の区画が整然とした坪割りの地形があった(中村、才田及び下河原)。『美作一宮郷土の歩み』
 これらのことから、8世紀頃にはすでに、農地に水をひく水路の原型ができていたと思われる。以降何度にもわたる改修を重ねてきた。特に藩政時代にはかなり大がかりな改修が行われ、この坂元井堰は上記中村地区の潅漑対策と併せ、山方の大谷川と合流させ、戦時対応を考えて、その水を本光寺前方の「土居の内」にまで取り込めるようにしている。 坂元井堰の潅漑面積は約47町7反の広範囲である。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年3月20日撮影)

坂元井堰(津山市山方坂元地内)の続きを読む

嵯峨用水にかかる水車(平福)

suisya18.jpg

2016年6月21日に水車を見たくて行って来ました。雨上がりの少し蒸し暑い日ですが、たんぼに植わった稲の清々しさにひとめぼれです。寛永9年(1632年)津山藩主森忠政が改修を命じたのが始まりとされていますのでおそらく、森忠政公も同じ風景を見ていたことでしょう。何百年も続いて来た風景にロマンを感じました。
(嵯峨井堰を源に、本線は小桁まで14k。二宮分2kを含めて全長16kに及びます。網の目のように張り巡らせた支線を含めればゆうにその倍はあろうかという、津山では最長の用水路です。)

嵯峨用水にかかる水車(平福)の続きを読む

津山市小田中浄水場の今昔

8.jpg

草加部の統合井堰浄水場の取材で訪れた水道局応接間の壁にかかっていた写真です。随分古い写真なのに、既にパノラマでしっかりしたお写真です。もったいないので小田中の浄水場取材に使用させていただきました。この浄水場の建築年は昭和8(1933)年で、津山石が使用されていたそうです。構造 RC造 地上2階建て/設計者 磯兼権蔵(旧市役所設計者)。

 現在の小田中浄水場は、新しい建物に建て替えられています。(2015年4月6日取材)

津山市小田中浄水場の今昔の続きを読む