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取材記事内を検索ワード「池」で検索した結果,320件の記事が見つかりました。

蕎麦尾山 光明院 金剛頂寺(鏡野町)

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 当山は、大宝三年(703)の開山と伝えられています。開基は不詳ですが、一説に鑑真和尚の説があります。
 弘法大師が美作路を巡錫の道すがら、蕎麦尾山に立ち寄られ、しばらく足を留め修業をされましたが、その折、近くの岩の塊を祈念し、手に持てる五鈷で岩角を打つと、忽ち澄み切った水がほとばしり出ました。大師は傍らに八大龍王及び弥勒菩薩を祀り、この霊水を本尊に供えられました。以来この霊水は、弘法大師の閼伽池として後世に伝えられ、今も霊水の枯れることなく現存しています。
 平安、鎌倉時代には特に栄え山上には伽藍がそびえ、参道の途中には小堂が建立され、高野山になぞられてこの堂を女人堂といい、当時女性はこの堂までしかお参りできませんでした。
 慶長十一年(1606)、当時の住職快秀が、ある夜の夢に、「この寺には以前銘鐘があったが、地中に埋められている。早く掘出しなさい。鐘のある場所は浴室の側の芭蕉の根元だ。」と告げて消え去りました。夢から覚めた住職は早速芭蕉の根元を掘ると、五尺余りの見事な梵鐘が出てきました。その銘には「美作国蕎麦尾山光明院 法界衆生平等利益之為也 嘉元四年(1306)丙午年正月二十八日」と刻まれていました。嘉元四年は鎌倉末期であります。
 戦前地元に良い音色を響かせ親しまれていた銘鐘も、戦時中に供出させられ、今はありません。

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有木乢(西田辺)

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 中山の神に奉仕した里人有木氏が居住していたところ。屯倉、神饌1000米のルーツと言われている。江戸時代にここに伯耆街道を通した、新町宿場町、百乢、養野、倉吉、隣接の香々美村への主要連絡通路。牛馬の水飲み場であった古井戸や屋敷跡がある。(文:美作一宮の文化財地図より)

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餝摩津斉七塚・鶴亀神社(鶴坂)

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 鶴坂の上り口にあり、寺城出身の力士の塚である。弘化4年(1847)の大坂番付に記載されている。本名は太田斉七といい、墓が寺城池の下にある。斉七塚のすぐ上は墓地になっており、疣神社、六体地蔵、供養碑がある。さらに進むと鶴坂の頂上付近の中国自動車道を横断する陸橋を渡るとすぐ左の小祠が鶴亀神社である。そばに三星城の家臣鶴之丞が妹亀の仇を討とうとしたが返り討ちに遭ったという哀話の説明板がある。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月23日撮影)

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青木山 常念院 極楽寺(鏡野町)

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鏡野八景 極楽寺とその周辺 
 青木山極楽寺の開基は、奈良朝の高僧、越智神融禅師と伝えられ、和銅年間に、この地に千手観音の像を安置して「極楽寺」と名づけられた。今から千二百年前の昔である。
 往時は、雌雄巌の下から五百七十坊の寺が甍をならべ、多くの僧侶が勧勤読経して繁栄を誇ったと伝えられているが、現在はその面影を偲ぶことができない。
 足利氏の末期、毛利の軍勢が入国するにあたり、寺は兵火にかかって焼失したという。
 慶長年中、本尊鎮守等が修理され、再建された常念院が現在の極楽寺となっている。

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旧足守藩侍屋敷遺構(県指定重要文化財)

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 足守藩主木下家は、平氏の出身でもとは杉原と称していました。杉原家定は織田信長の家臣でしたが、妹の「ねね」は、木下籐吉郎(後の羽柴秀吉・豊臣秀吉)に嫁ぎ、秀吉の天下人に伴って「北の政所」となりました。このため、ねねの実家が秀吉一族として木下姓を名乗ることを許され、さらに豊臣の称号も与えられました。
 関が原合戦に際して、2万5千石を領有して姫路城主であった木下家定は、北の政所を守護して中立を採り、合戦の後の慶長6年(1601)3月27日に、同じ石高で備中国足守に所領替となりました。ここに足守藩主木下家が始まり、一時中断があったものの、家定の子孫が明治維新まで13代にわたって藩主として、足守陣屋町の整備に尽力しました。

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墨池山 清瀧寺の藤の花

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 2019年4月28日平成が終わろうとしている時に津山市内を友人とドライブしてきました。毎年清瀧寺で行われる仏壇のお焚き上げに今年はお願いする予定にしていると言う友人の話から清瀧寺さんに立寄らせて頂きました。この季節、清瀧寺は毎年綺麗に咲く白い藤棚があります。今年は少し花の長さが短めでしたがとても綺麗でした。清瀧寺は弘仁十二年(821年)人皇五十二代嵯峨天皇の勅旨により弘法大師が開基されたものと伝えられています。

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2019 清眼寺のぼたんまつり

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 清眼寺は、美作88ヶ所第56番札所・美作国七福神毘沙門天霊場として、多くの参拝者で賑わいます。別名ぼたん寺ともいわれ、毎年のぼたん祭りには、色とりどりの美しい大輪の花を咲かせ、参拝者を楽しませています。今年は可愛い着物姿の子どもさんと出会い写真を撮らせていただきました。清眼寺のぼたんも可愛いけれど、ほんとに可愛らしい姉妹でした。(2017年の様子)(2019年4月28日撮影)

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ウッドパーク声ヶ乢のさくらが満開です。

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 2019年4月17日のウッドパーク声ヶ乢の約1200本のさくらです。
今年は、少し肌寒い日が続いたり、温かかったりと温度差の激しい年となりましたが、ウッドパーク声ヶ乢のさくらがとても綺麗に咲いています。津山城(鶴山公園)のさくらが散った後、ここに来るとまた綺麗に咲いたさくらが見えます。(2009年4月5日撮影)(2010年4月14日撮影)(2010年4月14日夜桜撮影)(2013年4月15日撮影)(2015年4月24日撮影

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地蔵菩薩(原・大西)

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 地蔵菩薩と呼ぶより「お地蔵さん」と言って親しまれている。地蔵が六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を巡って衆生を救うという信仰に基づくもので、石の地蔵さんを全国各地で見かける事ができるのは、庶民の広い信仰を物語っている。
 像容は比丘形といって剃髪頭で、如来と同様に衲衣(ころも)をまとい、右手に錫杖・左手に宝珠の姿が一般的であるが合掌像もある。
 彫り方は丸彫り・浮彫り・線彫りがあり像容には立像・坐像がある。鎌倉時代になってから各地で造られるようになり、江戸時代になると現世利益を念願とする民間信仰と合流し、現在に見られるような多様な地蔵が各地で信仰されるようになった。
 俗称で呼ばれている地蔵は多種であり願望が延命・治病・息災・安産・育児・豊作と多岐にわたり、また地蔵と子供のつながりは古くから子供守護としての結びつきも深くある。

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鷹山の削平跡(楢)

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 鷹山に中世の城砦と思われる跡がある。
 加茂川沿いの近長道に接する鷹山の頂上は南から西、北と非常に眺望がよく、以前から村人のお花見場として親しまれていた。この山頂に削平された南北二段の平地がある。30㎝ほどの段差で上段南側は一辺約12mの方形、下段北側はやや広い不定形の平地である。尾根続きの40mほど東にも現在は墓地になっているが平坦地がある。ここから東に5、60mのところには尾根を馬の背のように削り出した通路が残っていて陸橋の跡である。なお東に続く尾根には土塁の跡を疑わせるところもあり、一帯が城砦の跡と思われる。

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