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取材記事内を検索ワード「夏」で検索した結果,358件の記事が見つかりました。

神田(小田中)

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神田のおこり
 慶長9年(1604)に森忠政公が美作の太守として城下町を造る際に、各小川の流れを吉井川に集めました。当時は、紫竹川の支流が新田地区を流れていましたが、廃川となりそれが新田の開拓の源になったようです。

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人気の「庭木剪定入門セミナー」に参加!

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 津山市生涯現役促進協議会が55歳以上を対象にした庭木剪定入門セミナーを開催されると聞き参加して来ました。庭木剪定の基礎知識から松の剪定までの連続した3日間で、低中木剪定の基礎知識から、松の選定、剪定後の仕上げや清掃までを、植木屋 内田博士先生から学んできました。今回は社会福祉法人鶯園内の植木の選定で定員を大きく上回る人気のセミナーでした。参加された皆さんは、ご自宅の庭木をなんとかせねばと参加された方が多かったと思いますが、卒業後はシルバー人材センター等のお仕事も紹介しますとのことでした。

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新屋敷(小田中)

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 新屋敷町内は旧出雲街道沿いの安岡町北方の竹林を開いて足軽屋敷が設けられたのが始まりと言われています。その後、藩の縮小により廃止されました。東に西新座西、西に西松原、北に神田、西陵団地と隣接しており城西通りが町内の中心を東西に通り、飲食店・衣料品店が並び昔の田畑は無くなりました。
 町内の寺社は聖徳寺と荒神社があり、聖徳寺では7月30日に「われい祭り」が盛大におこなわれています。荒神社は夏・秋祭りの他に「いのこ」の行事が子ども達に受け継がれています。「薮の鼻」には「愛染寺奥の院」の大師堂があり、毎月20日には総代を始め檀家の皆様によりお参りがなされています。

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西今町

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 城下町建設当初は、町場ではなかったのですが、寛文年間(1661~1673)城下町に編入されました。古名を「茅町」といいましたが、編入時に改名したと伝えられています。東側を流れる川沿いの通りを藺田町(湯田まちともいう)と呼び、岡山往来の出発点として繁盛しました。西今町には、翁橋があります。これは、津山城下の西部を北から南へ流れる藺田川に架かる橋で、旧出雲街道筋にあたり東側に西の大番所がありました。翁橋は、国の登録有形文化財で「この建造物は貴重な国民的財産です」と記されています。その西側には、作州民芸館があります。この建物は、大正9年(1920)、旧土居銀行本店として建設されました。外観は正円アーチと直線で構成されるルネッサンス様式を基本にした建築物で、国の「登録有形文化財」になっています。

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笠松(小田中)

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 城西地域の中で北西の位置にあり、市街地から少し外れた丘陵地の見晴らしの良い高台にあります。戸数は100戸少々で東西に長く、面積はかなりあるものの家は点在し坂道が多いです。
 昔は30戸余りの野菜栽培の専業農家ばかりの小さな町内で、畑地帯で市民の台所でしたが、町の中心部に近いことから新興住宅地として戸数もどんどん増え、今は農家は少なくなりました。笠松地内に西陵団地ができ、やがて独立町内になりました。
 笠松の名前の由来は江戸時代この地帯は大きな松が茂り笠のようであったということでです。その松は今は全く無い畑地帯になっています。山を切り開いて畑にしたので山畑地帯とも呼ばれています。

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六躰地蔵『山西の民話』

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 山西の村のはずれに六躰という所がある。何時の頃からそんな名前がついたのかだれも知らない。いたち道の細い道がいく重にもくねっている。その山道の背の窪みに小さな石の地蔵様が七つ並んで立っていらっしゃる。あまり信仰する人もないのか、ローソクも線香も見かけることは殆どない。
 今から百年程前のことである。山西に長という信仰心深いおばあさんと生という娘がいました。おばあさんは氏神様に日参二十一日は新善光寺、二十五日は天神様にお参りして帰りには飴玉やけし板を買って六躰のお地蔵様にお供えするのが楽しみであった。

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お竹明神『山西の民話』

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お竹明神
 私の家の近くの藪の中に小さな祠(ほこら)があって、水鉢や燈籠がそなわっていた。
 昔みんながお竹大明神といって、女の人が主に崇拝していたらしい。面白いことに、からす貝の大きいのを競争のようにしてお供え物を入れて供えてあった。また時には赤いべべを着せた人形が供えてあったので、確かに女の神様だったと思う。


 祖母の話では、旧の八月十五日、月夜の晩が夏祭りで、行燈や提灯をぶら下げて一晩中踊り狂ったもんだという。そのときの歌に「お竹さん、ぼんぼの毛江戸までとどくヨイショ、江戸の殿様およろこび、ヨイショ、ごほうびたくさんくだされた、ヨイショ、そりゃあ、ほんまによかったなー、ヨイショ。お竹さん、死んで三年たってから、明神様にまつられて、ヨイショ、ごりやくたくさんくだされる。ヨイショ」と、ひなびたふしの無いままの歌を歌っていたと祖母が話してくれた。
 そのお竹大明神のいわれを紹介する。

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龍になった長者の娘『山西の民話』

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 入日長者は、何不自由なく暮らしていたが、ただ一つ子どもに恵まれないのが悩みの種だった。
 長者は神仏に祈った。特にお伊勢様に女房と二人づれでまいり、三、七、二十一日の塩断をして祈願をした。そのかいあったのか、その年、娘の子が授かり翌年男の子が授かった。女の子には伊勢と名前をつけた。 伊勢はキリョウよしで、村中の評ばんの美人だった。大きくなるほど美しさを増した。所々方々から嫁にほしいと申し込みがあった。しかし伊勢は一向に耳をかさなかった。
 十九歳のとき、因幡の国の長者から縁談が持ち込まれた。父も母もこれには心がうごいた。伊勢にこの話をして、いやおうなしに承諾させた。長者の娘のためにたくさんな衣裳を作ってやった。結婚の日取りは三月ときめた。いよいよ鹿島立つ日、一行は長い長い行列であった。美しい衣裳をまとった伊勢は又一段と美しさを増した。伊勢が門口に立つと見送りの人達がいっせいに「ああ美しい」と感嘆の声をはなった。伊勢は駕籠に乗って家を出た。父も母もこれが見納めとは思わず、門口で見送った。

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飯山狐の話『山西の民話』

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 昔のことである。飯綱から飯山、加茂-物見-因幡にぬける道を「因幡街道(加茂街道)」といって、津山から因幡にぬける重要な道筋であった。御維新にならない前の頃だった。この街道を津山から加茂へ帰ろうと急いでいる一人の馬子がいた。道は夏目池の裏側を通って飯山の六本松のある観音様の所へ通りかかった。フト観音様のお堂のかげから女の人が出て来た。馬子はこんなにおそく観音様から若い女の人が出るなんて、と不思議に思った。 
 女の人は若い美しい娘だった。

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名主の話『山西の民話』

musume.jpg山西に水源がなくて困った頃の話である。水田は、ほとんど天水田であった。天水田というのは、自然の雨水をためて耕作する田んぼのことである。特に寒い時の水をためて大事にしとくのである。寒水、雪どけ水は、大へん珍重せられ、夏水にくらべて水のもつ力がつよく、たんぼをまもる力がつよいといって大事にされたものであった。天水田以外は山雨川―蟹子川の流水があったがこれとて川といっても名ばかり、よその溝位のものであった。夏には水がかれて、かんがい用には余り役にたたなかった。


私の小さい時、冬の日に母が水車へ行って米を搗いて来たのをおぼえている。夏場は川の水は朝から翌朝まで、たんぼのかんがい用水として水車をまわすわけには行かなかった。夏の日、冬ためづきした「寒搗き米」でご飯をにてたべていると「スイ」くて変な味がしたが仕方なく文句も言わずに食べたものだった。また、たんぼも天水がだいじで、あぜを特に強くして、槌でたたいてむくろ穴をふせぎ、その上に泥を塗り、藁で日おおいをして更にもう一度泥をぬり水を一滴でも流さないように工夫をこらしたものであった。この天水田を「しる田」といって、夏も冬も水があった。

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