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数珠回しなどの伝統行事を行う平安時代末期のお堂

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大御堂 -おみどうー
 大御堂が創建されたのは、寿永4年(1185)と伝わりますが、定かではありません。2018年度に実施した放射性炭素年代法による測定で、部材の一部は、12世紀末、平安時代後期に伐採されたものであることがわかりました。岡山県内最古の木材を使った建造物ということになります。
 当時、大御堂ほど大きいお堂を村だけで作ったとは考えにくく、京都の仁和寺の資本が入って建てられたものと思われます。また、大御堂は現在、「堂ノワキ」という場所に位置し、北側に「堂ノモト」という地名があることから、本来は現在地のやや北へ建てられていた可能性があります。
 建築された当初は、一辺が8間(約14.5m)あったものの、その後、江戸時代初期に3間に縮められたとも伝えられます。現在は吹き抜けですが、柱には、かつて板戸で仕切られていたことを示す跡が残されており、幾度かの再建・修復を繰り返しているものの、部材には室町時代以前に遡る古材も多く残されています。(文:真庭市観光協会HPより)(2019年10月9日撮影)

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美作の大庄屋巡り「福島家 福島善兵衛」

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福島善兵衛 大庭郡目木村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 福島氏は、もともとは鎌倉幕府のもとで、伊豆福島郷に居を構え北條高時(1303-1333)代に故えあって四国土州七條公に仕え、土州安芸郡、讃州三野郡託間塩生構城・豫洲国分寺金甲山居たと伝えられる。享徳3(1454)年長宗我部元影により落城となる。一族を連れて安芸を経由して、美作の国勝山高田城の三浦氏を頼り作州の地につき、三浦氏に仕えたことに始まる。・・・19代一信(伊織介)の時。
文亀年間(1501ー1503)高田城三浦貞連の元で、山名右近亮の守護する篠向城を陥落させ城代として入城した。以来、21代玄蕃允 一盛(-1526)、22代玄蕃允 満則(-1548)、23代玄蕃 盛親(一則)-1584)75年間 篠向城を守護した。(23代玄蕃一則を目木構の祖とする)
天正4年(1576年)毛利・宇喜多連合軍により勝山高田城主三浦が滅ぶ。福島・金田が守護していた篠向城も陥落し、城から逃れていたが、宇喜多の家臣・江原氏に仕えた。福島盛親(玄蕃一則)の子・七郎右衛門は秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従い帰国後高麗犬を米来神社に寄進した。城主江原は釜山で病没し、その後関ケ原の戦いで西軍が負け宇喜多は改易され、福島、金田も帰農した。
江戸時代に入り、森藩により、大庄屋となる。

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美作歴史ネットで訪ねた中世式内八社の秋祭り

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 2019年度美作歴史ネット地域研修会のお誘いで真庭市社の「式内八社」について学んできました。
式内社:延長5年(927)に完成した『延喜式』第9・10巻「神名帳上下」に記載された神社。美作11座(10社)、備前26座(21社)、備中18座(18社)
美作の式内11座(一宮中山神社、二宮高野神社、三宮天石門別神社、社八社)
―中世の遺産・文化が色濃く残る社へ―
 山々に囲まれ、清らかな水が湧く、自然豊かな社地域は、まさに日本の原風景。そんな社地域には、神社や御堂、石造物、城跡などの歴史遺産が数多く点在しています。
 平安時代、醍醐天皇の命で編纂された『延喜式』に記載された重要な神社は、「式内社」と呼ばれていました。『延喜式』に記載された美作国11の式内社のうち、社地域にはじつに8つが集中しており、古代から神聖な場所とされてきました。中世以降にも多くの記録に記載され、古い形をとどめる祭りや行事も残っています。
「式内八社」とは佐波良・形部神社(県社)、二宮(長田、兎上、壱粟・大笹、久刀神社)、横見神社の8つの神社の通称です。(文:式内八社の里めぐりパンフレットより)2019年10月9日撮影

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イナママのルーツと森本慶三記念館

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 2019年12月11日(水)イナママが予てから行きたかった津山基督教図書館(現森本慶三記念館)に行って来ました。ママがよく話してくださった実母(明治41年3月2日生)の話の中に内村鑑三氏の話がでていたので「内村鑑三氏の事なら森本慶三記念館にいろんな展示物があったわよ。」というと「是非行きたい。」と言われていたので今日やっと実現しました。
 森本館長の案内で館に入るや否や「これ!この写真よ!あっ、寄贈者に兄の名前があるわ!きっと兄と母がここへ来たんだわ~!」と驚いた様子のママでした。
「新見の醤油屋(現カツマル 醤油)の娘だった母が、高梁の順正女学校から東京の薬剤師の学校へ行っている頃、内村鑑三を知り熱心な信者になったそうなんよ。その時代の写真を母が大切に持っていたのをよく覚えている。この写真がそうなんよ。」ママは感激して「胸のつかえがスーっととれたようだわぁ~。」と感慨深げでした。

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化石の世界(つやま自然のふしぎ館)

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 わが津山盆地は、はるかゆう久の昔し地質年代層を示す自然の博物館です。津山城址か、神南備山から、この盆地とそれをめぐる山々を望見すれば、日本列島の生い立ちの一大パノラマを思い浮かべることができましょう。古生代の終わりころには激しい地変があって津山市内から西方に亘っての基盤である結晶片岩類ができました。結晶片岩の山は山形仙、烏が仙、黒沢山のようにけわしい貎をしています。
変成しなかった古生層は津山から東や南方の基盤をつくりますが岩石が柔らかいので、南海台のようなゆるい山地をつくります。中生代の三畳紀にはこの一帯は海になりました。城山、観測所あたりや河面の近くで魚の介が見出されます。
ジュラ紀では地区地だったので地層はありませんが、白亜紀の後半は激しい火山活動がありました。那岐山系や佐良山から高比野山にかけた一帯にはその頃の熔岩や火山の噴出物が非常に厚く堆積しています。大きくみて2回に亘りましたが、後かのもののみでも厚さが1,000mを下りません。激しい振動を伴って沢山の火口から猛烈な噴火があって巨大な岩石が飛びかよい、多くの降灰によって天日は暗かったことでしょう。そして火山が衰えた白亜紀の末から新生代の第三紀のはじめにかけては、次第に地下に陥没して了いました。その時に深いところで花崗岩類が侵入しました。天狗寺山や錦織などの深成岩がこれです。

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人体の不思議館(つやま自然のふしぎ館)

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 つやま自然の不思議館創設者「森本慶三」の意向により、人体構造をより深く知ってもらうため、人体各部の模型が多数展示されています。また遺言により本人の主要な臓器(脳、心臓、肺、肝臓)が実物展示されています。(岡山大学解剖学教室で執刀、処理されたもので展示については岡山県知事の許可を得ています。)その他にも人体各部の模型や動物(ほ乳類、は虫類、魚類)の骨格類も多数展示されています。(文:つやま自然のふしぎ館内の案内より)(2019年10月1日、10日撮影)

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岸田吟香記念館(美咲町)

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美咲町旭文化会館(図書館、岸田吟香記念館)(美咲町西川1001-7)
 岸田吟香は天保4年(1833)4月28日に久米郡中垪和谷村(現在の久米郡美咲町栃原)で父、秀次郎、母、小芳の5男3女の長男として生まれる。
 幼少年時代の吟香は、大きな体で活発な子どもであったという。幼い頃から神童といわれ、4歳の頃にはすでに「唐詩選」を暗唱していたことからもいかに秀才だったかがうかがえる。5歳のとき、垪和の宝寿寺の住職が開いていた寺子屋で学び、12歳で坪井の大庄屋、安藤簡斉のもとへ学僕として住み込むことになる。吟香が坪井にいたのは、12歳から14歳までの2年間。この2年間で、坪井で学ぶものはないとみた簡斉は吟香を津山へ出し、はじめ永田孝平、次いで植原存軒に漢学を学ばせ、かたわら矢吹正則に就いて剣道を修めさせた。吟香が津山で学んだ期間はほぼ5ヶ年、その間津山郊外の高田村にある善応寺で私塾を開き、村の青年たちに四書五経や日本外史などを教えながら、勉学につとめていた。

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岸田吟香生誕の地と岸田家墓地(美咲町)

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  岸田吟香は天保4年(1833)4月28日に久米北条郡中垪和谷村(現在の久米郡美咲町栃原)で父、秀次郎、母、小芳の5男3女の長男として生まれる。
 幼少年時代の吟香は、大きな体で活発な子どもであったという。幼い頃から神童といわれ、4歳の頃にはすでに「唐詩選」を暗唱していたことからもいかに秀才だったかがうかがえる。5歳のとき、垪和の宝寿寺の住職が開いていた寺子屋で学び、12歳で坪井の大庄屋、安藤簡斉のもとへ学僕として住み込むことになる。吟香が坪井にいたのは、12歳から14歳までの2年間。この2年間で、坪井で学ぶものはないとみた簡斉は吟香を津山へ出し、はじめ永田孝平、次いで上原存軒に漢学を学ばせ、かたわら矢吹正則に就いて剣道を修めさせた。吟香が津山で学んだ期間はほぼ5ヶ年、その間津山郊外の高田村にある善応寺で私塾を開き、村の青年たちに四書五経や日本外史などを教えながら、勉学につとめていた。(文:岸田吟香記念館『岸田吟香』より)(2019年8月18日撮影)

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「徳守神社の令和初めの秋祭り 徳守大祭」宵宮

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 2019年10月26日「徳守神社の令和初めの秋祭り 徳守大祭」宵宮の様子です。
だんじり出動数は13台。この日は途中から雨が降りだして心配しましたが、夕刻にはなんとか止んで無事「だんじり宮入祓」も行われました。その後、だんじりは次々と商店街や市内を「そ~やれ!」と威勢の良い声で練り歩きました。

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村境の道標と灯籠型の六体地蔵(福井)

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田熊の大町・下木集落を真っすぐ南下すると、勝央町福吉に抜ける細い山道に入る。また、福井の片山集落から草町橋を渡って東に進むと、さらに細い山道があり、やがて田熊からの南下した道と出合う。福井からこの道は、さらに東進すれば、同じ福井分の離れ集落小峪と言われる戸数数軒の集落に行き着く。
 この2つの山道が出合った場所は、六道と言い、人里離れた山中であって、道の分岐点といえども道を尋ねる民家とてない。この位置に、津山では珍しい高さ1m余の六角灯籠型の六体地蔵があり、少し離れた東側の草むらに道標が残存している。長谷稲荷へ通じる道中でもあり、ここは福井分として、いまでも片山・桑田の住人により六体地蔵が祀られ、道路を含む周辺が整備されたりしている。
 道標は、文字が消えかかっているが、山石に次のように刻まれている。

(梵字) 右 たぐま 中 なら かうも ふくい 左 津山 道
    弘化 三年 丙午年 十月吉日 (弘化3年=1847年)
 道標は、昔は数多くあったが、今に現場に残る数少ない文化財と言えよう。

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