村境の道標と灯籠型の六体地蔵(福井)

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田熊の大町・下木集落を真っすぐ南下すると、勝央町福吉に抜ける細い山道に入る。また、福井の片山集落から草町橋を渡って東に進むと、さらに細い山道があり、やがて田熊からの南下した道と出合う。福井からこの道は、さらに東進すれば、同じ福井分の離れ集落小峪と言われる戸数数軒の集落に行き着く。
 この2つの山道が出合った場所は、六道と言い、人里離れた山中であって、道の分岐点といえども道を尋ねる民家とてない。この位置に、津山では珍しい高さ1m余の六角灯籠型の六体地蔵があり、少し離れた東側の草むらに道標が残存している。長谷稲荷へ通じる道中でもあり、ここは福井分として、いまでも片山・桑田の住人により六体地蔵が祀られ、道路を含む周辺が整備されたりしている。
 道標は、文字が消えかかっているが、山石に次のように刻まれている。

(梵字) 右 たぐま 中 なら かうも ふくい 左 津山 道
    弘化 三年 丙午年 十月吉日 (弘化3年=1847年)
 道標は、昔は数多くあったが、今に現場に残る数少ない文化財と言えよう。

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ここが三差路ですが、福井側(左)から入ったら、道が細く車の道幅しかなくて死ぬかと思いました。

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村境の道標です。

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 六体地蔵については、本来一つ一つ独立した六つの地蔵を言うのである。この灯籠型の地蔵は、通俗的に六体地蔵で通っているが、正しくは六体地蔵石幢と表現される。この辺りでは、勝間田の泣き清水や勝央町植月中の長尾山に同じ石幢を見ることができる。
 今は無住となり植月の慈円寺が管理に当たっているが、江戸時代に長尾山には、長尾山誠心院(のちに金光坊)という寺を開山した泰禅(たいぜん)という名僧がいた。
 長尾山(通称長尾寺)には、今でもその偉業を偲ばせる十王石仏、六体地蔵石幢、宝篋印塔、子安観音、観音霊場など、貴重な石造物が数多く残されている。
 ここの石幢も、長尾山の泰禅によって安置されたと言われる。
 時は、泰禅による泣き清水の石幢(1790年)と同じく、おおよそ寛政年間のころに、安置されたのではないかと推測される。通称長尾寺の石造物には、多くの寄進者の名前が刻まれているが、大町や福井・新田などの村名があり、この山道を通ってお参りする信者も、かなり多かったことを物語っている。
 六体地蔵は、死者の迷える魂を救い導くのが本来の意味だが、当時付近一帯は、樹木がうっそうと繁茂し昼なお暗く妖怪変化の噂も流布されていたことから、通行人が迷わないよう、通行人を元気づけ、安全を祈って安置されたと考えられる。通行人にとってみれば、これをどれほど有り難く感じたり、これによってどれほど勇気づけられたりしたことか、想像に余りあることと言えよう。

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六体地蔵です。

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六体地蔵です。

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ここが三差路です。(文:『広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著』より)(2019年10月16日撮影)