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取材記事内を検索ワード「寺」で検索した結果,897件の記事が見つかりました。

美作の大庄屋巡り「多胡家」

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多胡家 多胡勘右衛門 東北条郡綾部村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 多胡氏は、尼子氏の家臣として出雲国に居住していた。尼子氏滅亡後は宇喜多氏に仕え、医王山合戦では宇喜多氏の武将として戦っている。秀吉の朝鮮出兵に参加したといい、宇喜多氏滅亡後、綾部村に帰農した。吉兵衛が森藩の大庄屋に任命され、以後大庄屋を勤めた。
大庄屋として
 大庄屋を勤めた多胡氏は、屋号を米山という。経済的に行き詰まり、安永5年(1776)大庄屋職を取り上げられ、その後再び大庄屋に任命された。栄二郎は第1次長州戦争に従軍した。(雲路日記)

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阿波川沿いの六地蔵尊(阿波)

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 六地蔵は六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の衆生を済度するという思想から、六尊の立像を半肉彫したもので六体それぞれ異なる特物印想をあらわしており、平安時代から六地蔵信仰も始まったといわれている。因みに仏像図絵による六地蔵は次のとおりである。(『日本石仏辞典』による)
地持地蔵(護讃地蔵)両手で念珠を持つ
陀羅尼地蔵(弁尼地蔵)右手施無畏印・左手引摂印
宝性地蔵(破勝地蔵)合掌
鶏亀地蔵(延命地蔵)右手錫杖・左手如意珠
法性地蔵(木休息地蔵)両手で柄香炉を持つ
法印地蔵(讃竜地蔵)両手で幢幡を持つ
 大高下ふるさと村は、今も茅葺きの民家の多い農村であるが、豪雨が続くと阿波川が氾濫し、水害を被ることしばしばであった。改修した川土手の内側に並ぶ地蔵尊の列は、出水に洗われて乱れた共同墓地などから集めてきたもので、水の平和を見守る地蔵菩薩のお姿です。
 このほか、阿波村は高福寺前の首無し六地蔵、尾所の六地蔵旧道に残る道しるべ兼用の地蔵など、村の民族史にかかわる石仏が多い。阿波村(文:立札より)

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紫雲山 光嚴院 泰西寺(久米南町)

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紫雲山 光嚴院 泰西寺(第十八番)
 当山は元の泰山寺「光明坊」と元の「西山寺」を合した寺であり、寺号は泰山寺の泰と西山寺に西をとったものであります。
 両手ら合併に際しては泰山寺の本山が京都山科の「勧修寺」、一方西山寺の本山は高野山であり困難をきわめました。たまたま明治四十五年四月、西山寺の庫裡が焼失し、これを機に合併が一気に熟し、大正三年に現在地に新寺を建立しました。
本堂・客殿及び境内
 本堂と客殿には「川柳襖」、境内には川柳句碑及び川柳掲示板が樹木等に取り付けられており、川柳寺として広く知られています。本堂の川柳襖は「蓮の葉の露は真珠の夢を溜め」ほかが、水粉千翁の筆で見事に描かれています。
 また、境内には『人知れず花壇の隅に咲いて散り』の句碑の他、数多くの信仰川柳を掲示。その他、四国八十八ヶ所霊場のお砂を勧請した「お砂踏み・健康聖道」は裸足で歩いて頂く、ユニークなものであります。
奥の院
 元の西山寺跡には足王大権現を祀り、当山の奥の院・川柳公園として信仰に観光に脚光を浴びています。(当山から約五百メートル、句碑約三百基が建ち並ぶ日本一の川柳公園です)(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)

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2021年の初日の出

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2021年、明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いいたします。
 昨年はコロナウイルス感染症拡大防止のため東京オリンピックが延期になったり、イベントが軒並み中止になり本当に大変な年となりました。今年も変異したコロナウイルスに気を付けなくてはなりませんが、平穏に暮らせる日々が取り戻せますよう祈るばかりです。どうか皆様もお健やかに暮らせますようお祈りいたします。

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2020「縁起年の瀬市」

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 2020年12月19日(土)ソシオ一番街で「七福神もちつき縁起年の瀬市」をはじめ、盛りだくさんのイベントが開催され、久しぶりに多くの方が来られて賑わっていました。
 午前11時から美作国七福神霊場会の僧侶による法楽、餅つき、銭太鼓の演奏、午後1時からは太極拳、大道芸、太鼓のステージなども。その他「手作りマルシェ」や津山ホルモンうどんも出展して会場は大盛り上がりでした。

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仁木永祐と籾山黌をめぐる人々

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令和2年度津山洋学資料館冬季企画展「仁木永祐と籾山黌をめぐる人々」
会期:令和2年11月28日(土)~令和3年2月21日(日)津山洋学資料館 企画展示室(津山市西新町5)


 津山市街の北方、籾保の丘陵に、高さ4メートル程もある、大きな石碑があります。この石碑は、江戸時代後期から明治時代にかけて、この地で医療や教育、政治に尽力した医師 仁木永祐を顕彰するため、門人や地域の人々によって建立されたものです。
 永祐は1830(文政13)年に下津川村(現在の津山市加茂町下津川)の中庄屋 豊田伊兵衛の四男に生まれました。江戸や大坂へ遊学して洋学と漢字を学び、籾山村(現在の津山市籾保)の医師 仁木隆助の養子となって地域医療に尽力。明治時代には自由民権運動にも参加して「美作の板垣退助」と呼ばれました。

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二つ柳のいわれ(南方中)

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 大字南方中長谷の出雲街道から寺岡に渡る橋のたもとに地神石の傍らに二本の柳の木があった。
昔、出雲の国の人で観音様に深い信仰を持った男が、諸国の霊窟(神仏を祀った神聖ないわや)をめぐるためにこの地を通過した時、この地で柳の枝を折って箸にして弁当を食べた。この男はその頃脚気であろうか脚疾をわずらっていた。食事を終わった男は箸をこの地に植えて。「これからの長旅を控えてこの脚の病に苦しんでいるが、どうか観音様のご利益によって、目的の霊場の場巡りを終えこの地に帰ったところ、かの箸は枝葉よく茂り巨木となっていたので「二つ柳」と名付けた。
 また、この街道は伊勢参宮の道で、昔伊勢参宮の姉と弟の二人が柳の箸を作って食事をした後でその箸を地に挿し、「残るとや、かげも形もみえねども」と姉がくちずさめば、弟がすぐにそれを受けて、「いつの世にまでものこれ木の箸」と歌をよんだそうで、その二本の箸が二本の柳になった」のだ、ともいわれている。『久米町史』より

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道しるべ・材木供養塔・一畑薬師(久米川南)

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・道しるべ 西側の小さい石碑 出雲街道の表示
・材木供養塔 中央の碑
・一畑薬師 東側の碑
「昔、目の病が流行り、早く治るようにと願い、人畑薬師様に参拝した。
 今後この様な病気が流行らないようお願いをし、また薬師如来を勧請(神仏の分霊を請じ迎えて祀ること)し、碑を建てた。地区では毎年7月に地域の人が集まって、円光寺さんに拝んでもらい、いつのころか始まったかは不明。

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馬頭観音のイボ神様・念仏供養塔・六体地蔵様

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 2020年11月8日、「出雲街道 勝山宿の会」主催で、つながる「出雲街道」を歩こう会の特別企画第二弾(大井西の会と共催)で、津山市中北上~宮尾間を歩いてきました。実際に歩いてみないと細かなところまでは分かりませんが、資料を片手に歩いたところを紹介してみます。
 このページでは、坪井下の馬頭観音のイボ神様・念仏供養塔・六体地蔵様です。すぐ近くには餝摩津(しきまず)斉七塚鶴亀神社(鶴坂)・鶴坂神社等があります。

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少林寺のイルミンネーション(中北上)

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 2020年12月5日、津山市中北上ある曹洞宗澤龍山 少林寺の境内に飾られたイルミネーションを見に行ってきました。着いてみると先に見学に来られた方々が「わぁ~きれい!」と歓声をあげておられました。
 このイルミネーションは、喬松小学校3年生が自ら考えた地域貢献プロジェクト「地域を明るくしようプロジェクト」だそうです。イルミネーション・花ロウソク・竹灯籠を点灯して、みんなの心を和ませたいと、児童と地域とお寺が連携して一緒に手作りした灯だそうです。コロナ禍の世の中で人々の心が暗くなりがちですが、拝見して心がほっこりしました。ありがとう。

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