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取材記事内を検索ワード「往来」で検索した結果,84件の記事が見つかりました。

左:出雲、右:京大阪道。坪井町東角に道しるべ

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 現在、津山郷土博物館の前に、「左・出雲」、「右・京大阪、左・一ノ宮」、右・出雲」、「明治16年8月建之、坪井町」と刻まれたあ石碑が建てられている。この石碑の文字はもう少し続くが、埋められているためこれ以上判読することはできない。この道しるべについて、今井三郎さん(故人)は『津山坪井町の歩み』の中で次のように取り上げている。
「坪井町一番地の東南の角、道路に沿って大きな津山石製の道標があった。いまは撤去され、津山郷土博物館に保管してある。高さ五尺(約1.5㍍)、幅九寸(約27㌢)の四角柱形の立派なもの。文字は赤松寸雲先生。時代のずれと舗装道路改修で廃棄された。文字は"右・京大阪、左・一ノ宮""右・出雲街道""明治16年8月建之、坪井町、志茂意平、田口半治郎、片桐秀吉"とある」

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地蔵堂(鏡野)

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 枡形城の繁栄した年代に創始されたと言われ、以来400年以上踊り続けられている盆踊りがあり、毎年7月23日が祭日である。『天正年間(1573~1592)に枡形城が築かれたときに新町が作られて、戦国時代の生々しい戦いと混乱の世相に仏の慈悲を念じ、この地に地蔵堂が建設された』と伝承されている。
 棟札によると、
  宝暦4年(1754)5月改築  天明5年(1785)改築
 明和2年(1764)円通寺住職「龍盁」の名をもって燈明料として、白米6斗5升が寄進されている。

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美作の大庄屋巡り「島田家」(院庄)

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 島田家 島田太郎兵衛 西々条郡院庄村 森藩
大庄屋まで
 島田氏は、鎌倉幕府の役人としてこの地へ移り、代々太郎兵衛を名乗ったといわれる。美作一国の領主となった森忠政は構城の築城にあたり島田家に居住し、忠政の子忠広は島田家で生まれている。
 島田家は元禄10年(1697)まで4代大庄屋を勤めたが、5代目は幼少であったため、後見役を勤めていた江川四郎左衛門が森藩改易後、大庄屋に任命された。
大庄屋として
 慶安元年(1648)布原台地の開発に関わった。

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美作の大庄屋巡り「香山家」(野介代)

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香山家 香山太郎兵衛 東南条郡野介代村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 香山氏は、播磨国揖保郡香山の地名によるという。康正2年(1456)山名氏の家臣となり、香山城主であった。羽柴秀吉に攻められて落城し、香山安正が美作に逃れ、高野本郷の中島隆重の婿となった。
 森藩によって大庄屋に任命され、貞享年間に川崎村から野介代村へ転居した。
大庄屋として
 貞享元年(1684)吉井川の大洪水があり、川崎村は大きな被害を受けた。翌年、森長成の命により、川崎村200余戸と川崎八幡神社高福寺を北方の丘陵や野介代村に移転した。香山太郎兵衛は、移転に反対する百姓を説得して、移転させ、丘陵の開墾に尽力した。
 元禄8年(1695)幕府は江戸の中野に犬小屋建設を森藩に命じた。その経費として特別な負担を申し出た大庄屋や大年寄の中に香山太郎兵衛の名がある。森藩改易の翌年、松平長矩が新しく津山10万石の領主となった。この時太郎兵衛は領民の代表として土居藤七と江戸へ行き祝意を表している。

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美作の大庄屋「福本家」

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福本善兵衛 久米北条郡坪井下村 森藩~幕府領 挙母藩(ころもはん)
大庄屋まで
 家伝によれば、福本家の先祖は原田氏である。原田行佐の二男政次が坪井村の笠森神社近くに移住した。政次は、亀山城落城のとき戦死した叔父の福本藤兵衛の跡を継ぐため福本に姓を変えたという。政次の孫小左衛門は、村内の比津免(ひずめ)に移住し、後に森藩の大庄屋に任命された。小左衛門の孫文左衛門が、内藤藩の大庄屋に任命され、代々勤めた。
大庄屋として
 森忠政が、初めて領国を巡回した時小左衛門と父助右衛門が召されて、岩屋城攻めの話をしたという『大庄屋由緒調』。文化10年(1813)12月2日伊能忠敬の測量隊が止宿した。

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美作の大庄屋巡り「中西家」

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 中西家 中西孫右衛門 東北条郡小中原村 森藩~松平藩 関宿藩
大庄屋まで
 中西氏は、戦国末期、津山市勝北町西中にあった中西城の城主であった。中西玄蕃頭は尼子氏に従っていたが、のちに矢筈城の草刈氏に従った。草刈氏と姻戚関係を持ち、重臣として活躍し、草刈重継が毛利氏に従い安芸へ退去したとき、加茂郷に帰農したという。孫右衛門が森藩により大庄屋に任命された。

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美作の庄屋巡り「多胡源右衛門」

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 天正7年(1579年)尼子氏が亡んで、尼子氏の旧臣であった東北條郡綾部村(津山市)多胡源三郎基辰(妻は田口氏)は、父四郎右衛門基信(いづれも多胡氏略系参照)と共に宇喜多直家に属した。
 多胡基辰は毛利氏の属城の東北條郡岩尾山城(津山市吉見、祝山、医王山ともいう、既述)を常にうかがっていた。
 毛利方の城將の塩屋佐助は父の豊後守、弟杢助と共に城を守っていたが、多胡基辰に不意を襲われ戦死、落城した。

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出雲街道 坪井宿

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坪井宿(別名「麦飯町」とも呼ぶ)
 坪井の町は、津山から西へ3里(12㎞)北は国道181号線、南は七森川に挟まれた静かな町で、今も昔をしのぶ家並みが残っています。
◎坪井宿場の成り立ち
 中世から戦乱により、天正7年(1579)河本城(構の城)が落城、続いて岩屋城も天正18年(1590)野火により廃城となり多くの武将・家臣団の帰農が始まり付近に居を構えた。これが集落の始まりではないかと言われている。集落は、久米川沿いの山根市場、後坪井、薬師堂一帯に作られたという。(故安藤貞郎氏が成人大学で受講記録より)
 また、元亀元年(1570)・承応3年(1654)・延宝元年(1673)・延宝8年(1680)・元禄15年(1702)・放映4年(1707)と美作地方に、暴風雨・大洪水が6回あったと記録されており、久米川も大洪水となり、山根市場、後坪井、薬師堂一帯が流失、その後住民は現在の坪井に移住したと伝えられている。

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美作の大庄屋巡り「岸家」

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岸家 岸新兵衛 西北条郡香々美中村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 岸氏の先祖は久米南町下籾にある竜王山城主、岸備前守氏秀であるという。氏秀は伯耆尾高城主山名氏重の二男で天文年間に尼子氏に属し城を築いたが、元禄元年浦上宗景は尼子氏の衰退を見て、竜王山城を攻撃し氏秀は戦死し落城した。後裔の新兵衛が森藩の大庄屋に任命された。
大庄屋として
 津山城主天守閣の主柱に用いた桂の巨材は、大町村の宗重から岸新兵衛によって切り出されたと伝えられているが、父三郎左衛門が寄進したともいわれる。切り株から成長した柱が現存する。新兵衛は藩命を受け慶安元年(1648)布原台地の開拓、それに伴う用水路作りに貢献した。また、伯耆往来の宿駅に着手し、円通寺の客殿を寄進したといわれている。延享4年(1747)三郎左衛門は年貢米の不足から多額の負債を負い大庄屋を免ぜられた。

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美作の大庄屋巡り「植月家 植月六郎右衛門」

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 植月家 植月六郎右衛門 久米南条郡一方村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 植月氏は、美作菅家七党の一つである。家譜によれば、その子孫が宇喜多氏に仕えて一方村を与えられ、神南備山北麓に居を構えた。これが一方村植月氏の祖である。新右衛門が森藩の大庄屋を勤め、その後明治まで続いた。
大庄屋として
 植月新右衛門は承応2年(1653)の一方村の「山上り」や、延宝7年(1679)の皿川改修工事による広い新田作りに功績があった。皿川改修には下弓削村大庄屋河原善右衛門とともに尽力した。六郎右衛門は元禄一揆の記録を残し、山中一揆が起ると、120名の人夫を連れ、弓や鉄砲などを携帯して、鎮圧に出動する準備をした。澄江は、慶応2年(1866)長州戦争に郷夫隊総取締として従軍した。

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