山西ドジョウ(高野山西)
ドジョウは淡水産の小魚で、うなぎのような形をしています。大きいもので20センチ。口にひげがあり、味はあっさりして脂肪が少なくビタミンAが多い。
水の浅い底がどろのところに住み、危険を感じると水をにごらせてどろの中にかくれます。雨の前には水中からうき上がりぽつりと空気をはき、また空気をすって腸まで送る腸呼吸ををするおもしろい魚です。
ドジョは流れの少ないどろ土の深い所、ちょうど湿田のようなところがぴったりでした。ここはドジョウのいちばんのすみかです。
ドジョウは淡水産の小魚で、うなぎのような形をしています。大きいもので20センチ。口にひげがあり、味はあっさりして脂肪が少なくビタミンAが多い。
水の浅い底がどろのところに住み、危険を感じると水をにごらせてどろの中にかくれます。雨の前には水中からうき上がりぽつりと空気をはき、また空気をすって腸まで送る腸呼吸ををするおもしろい魚です。
ドジョは流れの少ないどろ土の深い所、ちょうど湿田のようなところがぴったりでした。ここはドジョウのいちばんのすみかです。
美術の秋を迎えましたが、津山にはまだまだ素晴らしい美術があるのを私たちは案外知らないのかもしれませんね。一般に公開されているものは数少ないのですが、私設美術館など今まで取材したものを少しまとめておりますのでご覧くださいね。それから、資料館・近隣の美術館なども併せてご紹介。(営業日時や場所は各HPなどでご確認ください。)
冑
享和3年(1803) 銘「享和三年二月日」 「明珎宗尚」 津山藩主松平家伝来 個人蔵
津山郷土博物館の3階に展示してあるこの兜ですが、見れば見るほど豪華な飾りです。この正面に飾られてあるのは龍?鯱のようでもあり、何の象徴なんでしょう?また、両耳のところには葵の紋が今でも黄金に輝いています。一見の価値あり。(2014.7.31取材)
城東むかし町家(梶村家)は江戸時代苗字帯刀を許された津山藩の「札元」両替商といった豪商の家柄で、のち皇族の方もお泊りになった大変格式のある家です。蔵が2つあり、東蔵は大正時代・西蔵は昭和時代です。このように江戸・明治・大正・昭和の各時代の建物が一つの屋敷内にある変化に富んだ町家での雛様達です。是非、ご覧ください。(2013年はこちら)(2008の取材はこちらです。)2014.3.6日取材
宮城野善平の墓すぐ傍に昔からある古い道がある。そこを少し上ると大日如来の石碑とともに、六地蔵がある。ここは散らばっていた石碑や六地蔵を集めた処ではないかとのことでした。そこを更に登っていくと堀内六郎衛門の墓へと続く道。2013.12.11取材
美作地方は幕末から昭和の初め頃まで、奉納や勧進の草相撲が盛んであった。『作州東部大相撲帳』によると、高倉地区の力士は明治21年から明治末年に29名と記されており、多くの力士が出て活躍していた。頭取(相撲の指導者)宮城野善平の門弟たちが、その功績をたたえ墓碑を建立したものである。(文:高倉の歴史と文化財より)
津山市西寺町にある泰安寺のロウバイの花は見事ですよ~。でも、いつでもは入れませんので前庭にあるロウバイを楽しんでくださいね。ここのロウバイの種類はソシンロウバイ(素心蝋梅)、トウロウバイ(唐蝋梅)だそうです。(2014年1月29日撮影)
堀井会館から西になだらかな坂道を行くと、家並みの途絶えた左手前方に、真新しい鳥居が見え、開けた所に樫風呂様の社がある。かつては大きな樫の木があったが、その下に広い風呂のようにくぼんだ所があり、堀井組合ではここでお籠りをしていた。その後方に白壁の阿弥陀堂が見える。ここは「本尊薬師如来 苫勝第七番霊場」となっており、堀井では昭和30年代まで、巡礼にくるお遍路さんの接待をしていた。阿弥陀堂が老朽化したため、堀井組合で浄財を出し合って、平成8年に改築し今もねんごろに祀っている。
2013年11月23日(土)・24日(日)津山城(鶴山公園)の見ごろを迎えたもみじです。この日は「ご当地グルメ・フェスティバル」があり、岡山県北一帯の美味しいグルメが大集合しました。また、同時に津山城探訪ツアー、ちびっこ広場、マリオのミュージックライブ、美作国大茶華会など沢山のイベントもあり賑やかな両日となりました。
2013年10月20日(日) 雨。当日の大隅神社の御神輿。大隅神社は、森忠正公が津山城の鬼門の守護神とて崇敬された神社です。
当日は、あいにくと朝から小雨が降っていて、肌寒い日になりましたが、みなさん気合を入れての巡幸です。2010年の様子はこちら、2011年の様子はこちら、2008年の様子はこちら→大隅神社の秋祭りアルバムついでに13小路もみてね。