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取材記事内を検索ワード「観音堂」で検索した結果,62件の記事が見つかりました。

大山みちを歩こう会(第6区)

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大山みちを歩こう会(第6区)立石~延助間(9.7㎞ 実質距離 10.5㎞)
 令和元年5月19日(日)、主催:出雲街道 勝山宿の会
■大山みちとは
現在の真庭市久世を中心として、東西には五街道(東海、中仙、甲州、日光、奥州)に匹敵する、重要な出雲街道(姫路~松江)があります。出雲街道は雲州と大和朝廷や京大阪を結ぶ、幹線となっていました。また南北には、古くより「大山みち」と呼ばれた古道があり、備中の国分寺跡を発し、足守より粟井温泉~掛畑~千升乢~加茂市場~尾原~鰻出~鹿出~落合~久世~三坂峠~禾津~藤森~延助~内海乢を経て、御机~鍵掛峠~伯耆大山寺に通ずる道があります。陰陽を結ぶ代表的な路線であり、人、物、牛馬、文化を運び、また、農民一揆の道でもあり、大山詣での信仰の道でもありました。現在ではその殆どは、一般道路に併合吸収されて昔の姿は止めていません。

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天台宗 美作国小桁山極楽寺(小桁)

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極楽寺略縁起
 美作国小桁山極楽寺は天台宗延暦寺の末寺であります。
当山は文徳天皇御宇天安二年(西暦858)、極楽寺の開祖天台宗第二の高祖慈覚大師円仁が西國行脚の砌、当山の民家に止宿せしめたまう。
 覆う事三日三夜、しかる間に雲中に阿弥陀如来光明赫として左右の大士こと光を放ち、此の山の絶頂の影に向いたまいて大師遙拝して不思議かな云々。
 本堂阿弥陀堂は山頂にあり堂跡(堂屋敷)なおあり、山の頂を安養の峯と稱し、北の谷を成仏谷、南の谷は不老谷、山を於桁と云う寺を極楽寺とす。
 本堂の周囲には、観音堂・虚空蔵堂・大子堂・鐘楼・寺坊・十二院、一町東に二王大門あり。
 過ぎし七百年以来の災難で坊舎を失い埋没して、残る所の四ヶ寺は、藤元坊・久保之坊・西之坊・極楽寺であり云々。
         中略
 備前岡山の城主宇喜多直家は、花房助兵衛職秀(もとひで)をして荒神山に城を築かせ職秀城主となる。職秀は日蓮宗の強信者であるため極楽寺の僧豪顕に日蓮宗えの改宗を強く迫ったが、豪顕は可とせず拒否しました。
 職秀怒りて僧豪顕を追放し寺を取壊その用材を持ち帰えりて人馬の住家にと工事は進みましたが、完成を目前にして無風の時にも拘らず倒壊し人馬の多くが損傷する所となる。その後荒神山城は廃城となる豪顕帰えりて一字を営む。
 後法孫円慶帰えりて荒廃した堂を修復す。本堂、千手観世音菩薩をもって本尊となす。脇侍不動附釈迦地蔵、毘沙門、荒神の像を安す。
「美作圀久米南條郡小桁山極楽寺 本尊千手観世音略縁記 住法明院」による。

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無量山 極楽寺のカヤ(加茂町宇野)

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無量山 極楽寺のカヤ(イチイ科) 
所在地:加茂町宇野・所有者:極楽寺・目通り周囲:4.5m・樹高:28m・推定樹齢:380年
 県道加茂寺元線より西へ150m行ったところにある極楽寺は、元禄年間(今から約280年前)に当地宇野に移り、新御堂山 極楽寺と称された。本樹は当時の創設以前から生育していたもので、幹は地上8mのところから双幹となっている。過去雷の被害を受けたこともあり、昭和30年までは雌木もこの近くにあったが伐られ、現在あるのは雄木だけである。(文:『津山の名木百選』より)(2017年2月25日撮影)

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忠臣蔵四十七義士・茅野和助常成について

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自眼流居合の使い手にして歌人
茅野和助常成
志深浅働次47士中43番目
・町医者に扮して、吉良邸付近を探索。
・赤穂浅野家に四年間仕えただけにもかかわらず、討入りに加わった。
・槍は浅野家屈指の使い手で、自眼流居合を得意とした。
・歌道で秀で、秀峰と号した。
生年・生国 寛文7年(1667)・美作国
役   職 横目
行   年 37歳(元禄16年2月4日、切腹)
祖父・父ともに津山森家に仕えていた。常成は最初から義盟に加わり、吉良邸探索に力を尽くした。泉岳寺修業僧白明の依頼により和歌一首、俳句一句を書いた。

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文化財めぐり(小田中 法源山 宗永寺)

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 2015年12月6日(日)津山郷土博物館友の会 第107回 文化財めぐり「森長継の生母 渓花院ゆかりの史跡探訪」があり、宗永寺(本堂内・森家墓所)を拝見してきました。
 宗永寺の由緒:山号は法源山、臨済宗東海派。長継が生母・渓花院の供養のため創建。家臣の市村重政・各務元正を奉行として堂宇を建立させ、明暦2年(1656)落成。方丈・書院・庫裏・廊下・中門・外門など、いずれも美麗を極めたという。渓花院の住持・正伝を開祖とし、渓花院の法名にちなんで宗永寺と命名、寺領として150石を寄進。森家の改易後は徐々に衰退し、天保年間に火災に遭うなどして、伽羅は昔の規模をとどめていないが、幕末に田中諦堂が住職となり、堂宇の修繕に努めた。明治17年(1884)の時点で境内は東西19間(約34m)・南北49間(約88m)あり、現状よりも北に大きく広がっていた。現在の本堂はかつて観音堂で、33体の観音像のほか、渓花院をはじめとする森家一門の位牌を安置する。(矢吹正則『津山誌』ほか参照)(文:津山郷土博物館友の会 第107回 文化財めぐりより)

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福本観音堂と地神様(坪井上)

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お大師めぐり(久米・苫田八十八ヶ所霊場)弘法大師信仰で四国八十八ヶ所霊場を巡拝するには余の規模が大きすぎるので、地方にそれぞれ八十八ヶ所をつくり巡拝するもので、福本観音堂は八十番札所となっている。本尊は観也音菩薩である。
参考 安清は阿弥陀如来が本尊。八十一番札所、木原は阿弥陀如来で七十九番札所(文:北恵兆さん)

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洗顔清水(後醍醐天皇伝説地)(種)

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洗顔清水(後醍醐天皇伝説地)
 元弘2年(1332)3月後醍醐天皇は鎌倉幕府討滅計画の失敗により隠岐島に配流された。その際、美作通過の行程について「太平記」や「増鏡」によると、播磨との国境杉阪から雲清寺、久米のさら山をへて院庄に入ったと推定される。
 このうち雲清寺の所在については直接のてがかりがなく、配流の具体的な道筋はなく不明とされてきた。そこで、幕末の国学者平賀元義らは、久米のさら山を詠んだ後醍醐天皇の歌「聞きをきし久米のさら山越えゆかん道とはかねて思ひやはせし」の「越えゆかん」の句などから、天皇の配流の道筋を押淵から種をへて皿に至る山越えの古道とした。そして雲清寺をここより西約100メートルの多祢神社東の峠付近と考証した。その途中のこの場所には、昔からいかなるひでりにも絶えることのない清水があり、天皇はここで顔を洗ったと伝えられる。今も地元の人々は洗顔清水と呼び、後世に守り伝えている。
平成10年2月 津山市 (津山市案内板より)(2015年11月11日撮影)

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楞厳山 慈恩寺の巨大な十一面観世音菩薩像(津山市林田)

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楞厳山 慈恩寺:観音堂内、本体約4.6メートルの巨大な十一面観世音菩薩像は、樹齢約2000年の「木曽檜」の一木彫りで造られている仏像です。四方を囲う四天 王像も約3メートルもあり、樹齢1800年の「姫小松」の一木彫り。制作年月日は大正初期から約6年間かけて作成されたもの。(2015年6月13日・6月22日取材)前回の取材はこちらをご覧ください。


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2015年, 長法寺のアジサイ(井口)

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神南備山のふもとにあり、明治6年津山城が取壊しになった時、城からアジサイの絵を描いた腰高障子を贈られたのを記念して境内に植え、現在は30種、約3000株が群生し、初夏の風情を求めて訪れる人の目を楽しませています。また、明治の詩人薄田泣菫がその名著「二十五弦」に出した長詩の一節のモデルといわれているイチョウがある。(2015年6月20日取材)

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