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取材記事内を検索ワード「古墳」で検索した結果,77件の記事が見つかりました。

立石家のさくらの咲くころ(二宮)

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2016年4月6日の立石家のさくらの咲くころに立ち寄ってみました。(私有地なの要注意願います。)
 この立石家の敷地内に咲く花々は四季折々で美しく道行く人々を和ませます。花が咲くころでは、遠くから眺めるだけでも素敵ですね。(立石家の過去の記事梅の花の咲くころ秋のコンサート)美和山古墳群

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第19回歩いてみんちゃいさら山「さら山時代祭」

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2016年11月13日(日)午前9時~午後3時30分、第19回歩いてみんちゃいさら山「さら山時代祭」佐良山小学校、皿~種(カキ谷古墳~洗顔洗水)に行って来ました。ここ数年は雨が続いていましたが、今年はやっと晴れてくれて道中が暑くもなく寒くもなく快適に過ごせました。また、後醍醐天皇の配流をイメージした時代行列、ステージイベント、バザー、抽選会や餅まきなど、様々なイベントが催されました。またみんなが楽しみにしている屋台もたくさん出店していて楽しんで来ました。

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随雲山 龍澤寺の百日紅(サルスベリ)

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その昔、宇那提ヶ森の近くに大きな深い淵があり、大蛇が潜んでいて、人々に災いを及ぼしていました。ある時その大蛇を退治した折、祀るための寺を建て随雲山龍澤寺と号したと伝えられています。境内左手には国指定史跡 美和山古墳群があります。
(2015年7月15日取材)

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大蔵池南製鉄遺跡(神代)

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 大蔵池南製鉄遺跡は道路建設に伴う発掘調査により発見されました。調査の結果、7層の作業面とその作業面に伴う製鉄炉安登を6基検出しました。この製鉄遺跡の時期は、一緒に出土した遺物により古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初頭)と推定されます。
 製鉄遺跡は尾根の南斜面を削り取って、巾約5m、長さ約7~8mの平坦面を造っています。この平坦面は作業面で、製鉄炉を築造し、燃料置場、原料置場、さらに鉄滓を廃棄する場所等がありました。製鉄炉はスサ入粘土で巾50~60cm、長さ約100~120cm、四方の箱型に造られており、炉の長辺の両側にはテラス状の作業台が付いています。
 炉壁には直径3cmの通風孔が穿たれており、製鉄作業の燃料には木炭、原料には砂鉄を用いて、人工的に送風しながら製鉄を行っていたと考えられます。
 検出した1・4・5・6・7炉跡と、その下層の遺構は遺跡の重要性を考慮して埋土により保存されています。
 この遺跡の所在する糘山地区には鉄滓を副葬した古墳や鉄穴流し遺構(砂鉄採取の跡)があり、古代から鉄と深く結びついた地域であることがわかります。
久米開発 文化財調査委員会(解説板より)(2016年2月16日撮影)

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真福寺(勝間田)の大銀杏

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岡山県勝田郡勝央町勝間田647 真福寺

弘仁五年、僧空海開基と伝え、美作の国間山に、天長年間、仁海常上人がこれを開山した。天文年間戦火により消失す。
その後、勝北町平村に再建せしも再び火災に遭い、天正十六年(一五八八)勝間田の住人(福田玄蕃勝昌の子孫)福田左兵衛門氏が勝間田西方の田地の寄進あり、 正保年間、快養和尚が再建、天明二年(一七八二)自盈和尚本堂を再建、嵯峨大覚寺末寺となる。
戦後昭和二十四年高野山真言宗となり記念事業とし当山第二十一世全戒和尚により鐘楼堂を建立現在に至る。(高野山真言宗 美作八十八ヶ所霊場HPより抜粋)2014年11月16日取材

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岩滝様と腰淵様(油木北)旧久米町

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 油木北の岩滝様も巨岩崇拝に基づく神様で、此の地方は、弥生時代の集落址・土拡墓群、数々の古墳のあることからして、弥生時代から古墳時代、奈良平安時代へと、人里の栄えた地域で、小範囲の地域に巨岩の何個もが集まっている岩滝様のあたりは、磐境とか磐座と見立てるに恰好の条件を備えていて、神宿る聖域として祭祀が行われており、時代が降って、瀬織津姫(せおりつひめ)の神を祭神とする岩滝様が祀られるようになった。

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国指定史跡 三成(さんなり)古墳(大字中北下)旧久米町

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三成古墳の復元整備について
 三成古墳は、昭和53年に行われた発掘調査によって、美作地方の古墳としては、例がすくなく貴重なものであることがわかりました。このことから昭和54年10月、国の史跡指定を受け、史跡内用地を買収し、国および県の補助により57年度に復元整備を行いました。
復元計測によって得られた数値をもとに墳丘を復元し、地中より発見された石棺は埋め戻して、地上に同じ材質の模型をつくりました。また、あわせて説明板や標柱、歩道などを設置し見学の便宜をはかっています。

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正仙塚古墳(高野山西)

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 山西の丘に、正仙塚古墳があります。
五世紀のころつくられたと、研究者永山卯三郎氏はいっています。
長い間に、古墳の上のもり土が雨などで流され、あらわれたのでしょう。ふたの石は、一枚石で、人の手で、たくみに加工されています。石棺の内がわは、べんがらがぬられています。
古墳の丘の大きさは、今ではくわしくはわかりませんが」、かなり大規模な前方後円墳です。
山西の人たちは、武塚古墳とも呼んでいます。

(文:高野小学校 むかし高野より)2015年1月25日取材

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能万寺古墳群(きつね塚遺跡)(津山市押入)

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狐塚遺跡(きつねづかいせき)
 この遺跡は古墳時代後期(七世紀前半、約1300年前)のムラの跡です。津山東中学校の建設に先立ち津山市教育委員会が1973年に発掘調査しました。
 東西100、南北30mの調査範囲から竪穴式住居址二五軒、建物跡十一軒が発見されました。これらの遺構からは鍛冶炉とともに多量の鉄滓(製鉄や鉄加工をした時に残る鉄かす)が見つかりました。鉄滓には、製鉄をした時にできる製錬滓があることや、鉄鉱石の破片が住居内から出土したことから、このムラに住んでいた人々は、製鉄や鍛冶にたづさわっていたことがわかりました。(前回の取材

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2014年「さら山時代まつり」がありました。

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2014年11月9日(日)今年も恒例の「さら山時代まつり」がありました。この日は昨年に続きあいにくの雨でしたが、それでも大勢のお客様で賑わっていました。いろんな予定も若干の変更もありましたけれど、子どもたちは元気よく会場内を回っていましたよ~。

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