
医療の発展に貢献した久原家(二階町)

津山の今昔を辿ってみました。(1)

行啓道路(津山市山下)

坪井山 称念寺(大字坪井下)旧久米町

2016年4月24日、「狩野 久先生(奈良文化財研究所名誉研究員)と巡る飛鳥の旅」と題して、奈良県明日香地方を訪ねてきました。朝7:00津山市役所⇒10:30飛鳥資料館⇒11:30甘樫丘⇒12:30あすか野(昼食)⇒13:30石舞台古墳⇒14:30伝飛鳥板蓋宮跡⇒15:30飛鳥寺⇒16:30藤原宮跡⇒20:00津山市役所着で盛りだくさんの行程でした。
今回は、狩野先生がご案内くださるとのことで、大勢の皆さんが参加されていました。
飛鳥資料館では、第一展示室で、高松塚古墳をはじめとする古墳の出土遺物、日本最初の水時計である水落遺跡や飛鳥寺・川原寺など、飛鳥を代表する遺跡の出土品と模型が展示してありました。
また、第二展示室の山田寺東回廊は、現存する世界最古の木造建造物である法隆寺よりも古く、1,000年以上もの間地中に眠っていた建築部材を使い、保存処理に14年という歳月がかかったという記憶に残る回廊でした。
飛鳥資料館庭園 飛鳥の石造物
飛鳥の石造物
第一展示室の主な展示品は、高松塚古墳をはじめとする古墳の出土遺物、日本最初の水時計である水落遺跡や飛鳥寺・川原寺など、飛鳥を代表する遺跡の出土品と模型が展示してあります。
また、第二展示室の山田寺東回廊は、現存する世界最古の木造建造物である法隆寺よりも古く、1,000年以上もの間、地中に眠っていた建築部材を使い、保存処理に14年という歳月がかかった見事な回廊でした。
飛鳥の石造物
庭園には、様々な飛鳥の石造物が展示されています。
石舞台古墳の解説
この石舞台古墳は、横穴式石室を持つ方形墳で、築造は7世紀の初め頃と推定されます。既に古墳上部の封土は失われ巨大な天井石が露出した姿になっています。被葬者は不明ですが、6世紀後半にこの地で政権を握っていた蘇我馬子の墓ではないかといわれています。
昭和8年と10年に本格的な発掘調査が行なわれ、その結果、玄室の長さ7.7m、幅約3.5m、高さ4.7mで大小30数個の花崗岩が使用されており天井に使われている石の重さは、北側が約64t、南側が約77t、総重量は約2,300tという大規模な古墳であることが判明しました。
(文:石舞台古墳のチケット裏解説より)※詳しい事はこちらから←
史跡 伝飛鳥板蓋宮跡(昭和47年4月10日指定)
推古天皇から持統天皇に至る七世紀の約100年間、飛鳥地方には歴代天皇の宮がつぎつぎと造営されたが、その遺跡はどれもまだ確認されていない。そのうち皇極天皇の飛鳥板蓋宮については、この付近とする伝承があり、昭和34年以来、おもに橿原考古学研究所によって発掘調査が続けられてきた。
その結果、掘立柱列で囲まれた東西約一五六メートル、南北約一九七メートルの長方形の区画(内郭)と、その南半では中軸線上に位置する五間×二間の門と、七間×四間の建物、北半ではここに復元したような高床式の大きな建物や大井戸など多くの遺構が検出された。また内郭の東南に接しては、九間×五間の大規模な掘立柱建物(飛鳥エビノコ大殿と仮称)を中心とする一区画があり、さらに東の県道ぞいには、これらの遺構を囲む外郭の柱列や石溝が南北に続いていることも明らかとなった。
建物はすべて掘立柱で、周囲に石敷があり、木簡や土器などの出土遺物から、板蓋宮よりは新しい七世紀末ごろの宮殿遺跡と推定されるが、下層にも遺構があり、いずれの宮であるかは、なお今後の調査をまたねばならない。 奈良県教育委員会 (文:現地案内看板より)
狩野 久先生と巡る飛鳥の旅
飛鳥の謎の石である史跡「酒船石」。この石は伝飛鳥板蓋宮跡の東方に位置する小高い丘陵にあります。この丘陵一帯に広がる遺跡を現在「酒船石遺跡」と呼んでいます。平成4年に丘陵北斜面で砂岩石垣が発見されたことから『日本書紀』の斉明天皇2年の条に記された「宮の東の山に石を累ねて垣とす。」「石の山丘」に符合する遺跡であると推定されています。
酒船石遺跡 亀形石造物
平成12年の丘陵北裾で行った発掘調査で、新たに亀形石造物、小判形石造物が見つかっています。この2つの石造物は石槽となっており、造形的にも優れています。組合せて導水施設を造り出していることかが明らかとなりました。水の流れとしては砂岩切石を積んで造られた湧水施設から小判形、亀形石造物を通って北へと伸びる溝に排出されており、水源から排水までの一連の導水構造が解明されています。その周囲には石敷が広がり、東側には階段状石垣、西側にも石垣などが見つかっています。
ここでは亀形石造物の周囲400㎡をご覧頂くことになります。遺構は斉明期に造営され、何度か改修されながら平安時代に廃絶されるまで、約250年間存続していたことが判明しています。特に良好に遺存している7世紀後半(天武天朝前後)に造営された遺構を公開展示しています。
この場所は東西に張出した尾根に挟まれて閉鎖性の高い人工的な空間を創り出しています。何らかの祭祀が行われたことが示唆されています。酒船石遺跡は斉明天皇の「両槻宮」ではないかとも推定されており、丘陵との関係などが大いに注目されることでしょう。(文:酒船石遺跡パンフレットより)
飛鳥寺西門跡を歩く
.飛鳥寺略縁起
飛鳥寺は第32代崇峻天皇元年(588)蘇我馬子が発願し、第33代推古天皇4年(596)の創建された日本最初の寺であり、寺名を法興寺、元興寺、飛鳥寺(現在は安居院)とも呼んだ。近年(昭和31年)の発掘調査により、創建時の寺は塔を中心に東西と北にそれぞれ金堂を配する日本最初の本格的寺院で、その外側に回廊をめぐらし更に講堂を含む壮大な伽藍であった。本尊飛鳥大仏(釈迦如来坐像)は推古天皇17年(609)天皇が詔して鞍作鳥(止利仏師)に造らせた日本最古の仏像である。旧伽藍は仁和3年(887)と建久7年(1196)の火災によって焼失し、室町以降は荒廃したが、寛永9年(1632)と文政9年(1826)に再建され今日に至っている。現在真言宗豊山派に属し、新西国第9番、聖徳太子第11番の霊場でもある。
本尊飛鳥大仏(釈迦如来坐像) 銅像 重要文化財
推古天皇13年(605)、天皇が聖徳太子や蘇我馬子及び各皇子と誓いを立てて発願し、同17年(609)鞍作鳥(止利仏師)によって造られた日本最古の仏像である。高さは約3メートルで当時銅15トン、黄金30キログラムを用いて造られた。平安・鎌倉時代の大火災で全身罹災、後補を受ける。しかし概形には飛鳥彫刻らしい形をとどめ、細部にもかなりはっきりした飛鳥の特色を伝えている。(文:飛鳥寺パンフレットより)
飛鳥寺伽藍復元図 推古天皇の勅命を奉じ、仏像制作に励む鞍作止利
史跡 飛鳥水落遺跡絵図 水時計装置
狩野先生のプロフィール
1933年 北海道生まれ
1963年 京都大学文学部研究科博士課程(国史学専攻)単位取得退学
現在 奈良文化財研究所名誉研究員
〔主要著書〕
・木簡(日本の美術160号)1979年、至文堂
・飛鳥・藤原の都(共著)1985年、岩波書店
・日本古代の国家と都城1990年、東京大学出版会
飛鳥水落遺跡
明日香村埋蔵文化財展示室に立ち寄るとキトラ古墳の実物大の石槨模型がありました。
飛鳥の壁画古墳(高松塚古墳)のパネルが展示してありました。
飛鳥のカレンダー 飛鳥寺西方遺跡(土管) 猿石(男)複製
藤原宮跡の看板 藤原宮跡の詳しい記事はこちら←