津山やよいライオンズクラブの奉仕活動 2019
2019年8月7日(水)の早朝6時から沼住居跡で、津山やよいライオンズクラブ会員の皆さん(会長大戸司朗)が沼遺跡の草刈奉仕作業をされました。津山やよいライオンズクラブの名前の由来である沼遺跡の草刈奉仕作業は、昭和45年のクラブ結成以来続いているそうです。また、津山弥生の里文化財センター職員さん、有本明彦教育長はじめ津山市教育委員会職員の皆さんも参加されていました。(2017年吉井川河川敷の清掃の様子)(2016年8月24日の沼住居跡草刈の様子)
2019年8月7日(水)の早朝6時から沼住居跡で、津山やよいライオンズクラブ会員の皆さん(会長大戸司朗)が沼遺跡の草刈奉仕作業をされました。津山やよいライオンズクラブの名前の由来である沼遺跡の草刈奉仕作業は、昭和45年のクラブ結成以来続いているそうです。また、津山弥生の里文化財センター職員さん、有本明彦教育長はじめ津山市教育委員会職員の皆さんも参加されていました。(2017年吉井川河川敷の清掃の様子)(2016年8月24日の沼住居跡草刈の様子)
高松城の水攻め
今から約400年前の天正10年(1582)、織田信長の命を受け羽柴秀吉は、3万の大軍をもって、備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々と攻略するとともに、備中高松城を攻めた。秀吉は、高松城に城主清水宗治に利をもって降伏するよう勧めたが、義を重んじる宗治はこれに応じなかった。高松城は深田や沼沢の中にかこまれた平城で水面との比高がわずかに4mしかなく、人馬の進み難い要害の城であった。秀吉は参謀黒田官兵衛の献策に戦史にも稀な水攻を断行し、兵糧攻めにした。秀吉は、備前国主宇喜多氏の家臣千原九衛門勝則を奉行とし、3千mに及ぶ堤もわずか12日間で完成させた。時あたかも梅雨の頃で、増水した足守川の水を流し込み、たちまちにして188haの大湖水ができた城は孤立した。
6月2日の未明、京都本能寺で信長は明智光秀に討たれた。秀吉はこれをかたく秘めて毛利方の軍師、安国事恵瓊を招き「今日中に和を結べば毛利から領土はとらない。宗治の首級だけで城兵の命は助ける」という条件で宗治を説かした。宗治は「主家の安泰と部下5千の命が助かるなら明4日切腹する」と自刃を承諾した。
2019年3月8日に津山市沼にある津山弥生の里文化財センター2階の展示室に今年初めてお雛さまが飾られました。過去の取材の時にも展示室で眠っておられたお雛さまも、このように晴れの舞台に飾られて嬉しそうですね。(2019年3月8日撮影)
2018年11月2日~4日まで沼のくらやアートホールにて工房 咲季さん主催の押花作品展がありました。細部に至るまでお花を愛おしく思いながら作品作りをしておられることに感激しながら拝見してきました。
「四季の花々に魅せられ、さまざまな押花額に挑戦し作品作りをしました。津山市立西中学校アート&クラフト部の皆さんとふれあいのなか、生徒さんたち初めての押花額も ごゆっくりとお楽しみください。」とのことでした。(2018年11月3日撮影)
近長陣屋領内であった勝加茂西中の真言宗新善光寺境内鐘楼の巽位に近長代官沼尻又治郎の墓があり、自然石の碑に
沼尻又次郎重遠墓
先考仕吾 土浦候嘉永癸丑四月為近長令赴任癸丑七月罹病以五日沒于府舎無子故以甥重道為嗣葬新善光寺謚曰 沼蓮院甫仭義照居士
と刻まれて居る。碑文には病死と記されてあるも事実は近長大庄屋甲田猪右ヱ門方に於いて自刃したものであり、其死因に就ても俚傳があるも明確でなく、此没後甲田猪右ヱ門が公用の道中、攝津尼ヶ﨑附近に於て沼尻氏の為めに討たれたとのことが傳へられてゐる。
一郎さんがまだ12,3歳の頃の話。
親類の吉見に法事によばれて行きました。
ご馳走をよばれて帰ることになりました。見送りに出たおばさんが、
「一郎すこし遠いけど山道を帰らずに、大街道を帰りなさい」
と親切に言ってくれました。
2018年5月3日(木)~5月5日(土)・10:00-16:00くらや総本舗前駐車場・特設テントにて「鈴鹿屋・くらや恒例の弥生の里まつり」がありました。くらやさんでは、すっかりおなじみになったみたらし団子やたい焼きの実演販売、蒸したて柏餅や新登場の氷室餅とどら焼き摘み放題、鈴鹿屋さんでは陶器市や金物市など、津山みのり学園さんのクッキー、パン工房さんのパン、バンコクコーヒーさんなどなど盛りだくさんの企画でした。(2018年5月3日撮影)
大谷是空は(本名藤次郎)は、美作国西北條郡西苫田村大字山北の地に慶応3年(1867)10月27日、父為吉の次男として生まれた。和田克司著『正岡子規と大谷是空』によれば、子規が「筆まかせ」において、是空を親友と呼んだように、子規の青春時、是空はもっとも親しい子規の友人であり、心許した仲だったそうだ。
明治17年(1884)に上京、進文学社に学び、次いで東京大学予備門に入学、在学中に第一高等中学校となり、5年経ったころ発病、22年に静養のため郷里に帰った。当時津山には小学校以上の公立学校はなかった。たまたま東京の青年協和会の手で学校を建てる募金のために有志が帰って来た。東京に美作人のための学校をつくろうとしたらしい。これに対して大谷是空は、東京のことは東京でせよ、われわれは郷里のためにやると決意、地元の有志やら、周辺の郡長によびかけ、普通学校が建った。これが動機となって、津山中学校が建つことになり、大谷は初期の教師となって、津中の教壇に立った。しかし明治30年には大阪に出て生命保険会社に就職、さらに東京汽船会社へ、それが合併して日清汽船となり、事務的才能を発揮した。
三寶荒神社略誌
・社号 三寶荒神 ・社鎮守地 津山市新魚町三十二番地 ・祭神 火産霊神奥津比古神奥津比売神
由緒
三寶荒神社ハ祭神、火産霊神・奥津比古神・奥津比売神(亦名大戸比売神)ニシテ蓋シ竈神又厨房ノ神ナリ 当神社勧請、年代ハ詳カナザルモ伝説及境内ニアル榎ヨリ推定スル二今ヲ去ル三百年以前ニテ森忠政侯入府前戸川宿時代此地方ノ住民ノ祭レル鎮守ノ神ナルベシ(註往時農村ニハ上十石ト稱シテ十石ヲ収穫スル土地ヲ一廓トシテ荒神ヲ祭リシモノナリト云ヒ市街地ニハ少ナキ神社ナリ)
森忠政侯入府ト共二戸川宿ヲ中心ニ附近ノ土地ハ津山城下トシテ日々繁華ナル市街地トシテ人家次ギ次ギト建チタルモ旧来附近住民ノ信仰ハ、猶集中シテ衰ヘズ榎ノ側ニ小サキ社ヲ造リ竈ノ神又厨房ノ神トシテ益々祭神ヲ厳修シテ今日ニ至レルモノナリ
松平侯時代迄ハ木知ヶ原町(現今ノ堺町)ヨリモ参道アリテ参拝者モ多ク殷賑ナリシガ参道附近ノ繁栄ト共ニ何時シカ参道ハ人家ニテ塞ガリ天保中頃ヨリ新魚町ノ繁栄ニツレ後遂ニ新魚町東組ノ鎮守社トシテ専ヲ恒例ノ祭事ヲ行フ事トナリ商売隆盛ナルト共ニ崇敬愈々篤ク以テ今日ニ至レルモノナリ
新魚町ヨリ参道ハ現在ノ西側半間程ナリシガ吉元宗治郎(入江万治郎弟)大病時共平癒ヲ祈リ其東側ヲ寄進シ現在ノ参道トナセシモノナリ(明治二十四年)境内東側堺町(現在稲村氏、住所地)ヲ荒神屋敷の稱シ神宮小林もんど明治初期住居セシ土地ナリ
2018年3月3日、津山市川崎にある津山東公民館で「津山市公民館講座 演題:士魂商才の実業家 磯野計ー世界のベスト(最良品)を日本へー」と題して、元津山洋学資料館館長の下山純正さんが磯野計の生涯を色々なエピソードを加えてお話してくださいました。