禍福神社(津山市草加部)
禍福神社(かふく)は、上部神社のすぐ近くでお祀りされています。禍福神社は明治期に当地で熱病が流行したおり、疫を封じ、神として鎮撫することとした。(岡山県神社庁HPより)(2014.9.26撮影)
禍福神社(かふく)は、上部神社のすぐ近くでお祀りされています。禍福神社は明治期に当地で熱病が流行したおり、疫を封じ、神として鎮撫することとした。(岡山県神社庁HPより)(2014.9.26撮影)
宇喜多秀家が岡山城の象徴に建築した三層六階建ての望楼形天守閣で、城郭建築物に天守閣が出現して発展し始めた時期の構造的特徴を伝えていました。城主の権威を象徴する書院造りの居間(城主の間)が設けてあり、初期の天守閣の性格を物語っています。昭和20年の空襲で焼失しましたが、昭和41年に再建され、城主の間も復元されています。
津山市下横野 多聞寺
多聞寺は、平安初期(西暦860年)に開祖された毘沙門天をお祭りするお寺で、当初は下高倉の寄松にありました。しかし、中世の山名・赤松の兵乱で兵火にかかり焼失しましたので、香々美の藤屋に避難しました。下横野の現在の地に再興されたのは、それから半世紀あまり経った西暦1500年以降で、盛衰を繰り返しながら今日に至っております。
一宮大規模農道から下横野を望むと、一面に田園の広がる果ての、小高く白一直線の塀の中に多聞寺は、楼門・庫裏・客殿・本堂が調和よく佇んでいます。背後に中国山脈を控え、青空が広がるスケールの景観は、人々に故郷の安らぎと叙情を偲ばせることでしょう。
高倉小学校の記念碑に見る高倉の学校教育
高倉小学校の校門を入って北側の庭園に、「創立百周年記念碑」と「創立百十周年記念碑」が建っている。また、寄松池の土手から西に坂道を上った峠に、創立百周年記念事業として昭和51年(1976)10月に建立した「高倉小学校創立之地」の碑がある。
創立百周年記念碑の題字は時の文部大臣奥野誠亮氏の書で、当時の高倉公民館長片山方雄氏の碑文が
刻まれている。碑文を補足しながら高倉の学校教育の歴史をひもとくこととする。
(2013年3月21日取材)(文:高倉の歴史と文化財より)
高野山真言宗準別格本山尊光院圓通寺は、元総持院と号した。弘法大師帰朝後この美作の地に密教を広めるため、当山を建立したと伝えられる。
古来より西の高野また二ノ宮高野神社の奥の院と称せられたが、永禄年中福田玄蕃盛昌(毛利の武将)桝形城を築き、寺を外衛として軍士の大半を住居させた。よって城陥るに及び寺も全焼す。
時の院主成瑜法印焼趾に草庵をいとなみ法灯を守る。現在別所と称する土地で、広大な敷地跡があり、昭和二十二年「金銅仏」が掘り出された。
三十八世覚清上人檀越を説き、現在地へ再建された。
津山森氏入封の後、当寺へ対する帰依浅からず寺領百石を寄進されている。四十七世秀範上人の時、再度焼失したが再建され、本堂の棟木に「寛延四年(一七五一)秀範七十二才これを建つ」の文字が見られ、現在の建物は二百四十数年の歴史を有す。
近世の高僧として知られる竺道契・新弘栄師(両師に付いては岡山県大百科辞典参照)が住した。寺宝・文化財は数十点有する。(文:美作 高野山真言宗八十八ヶ所霊場HPより抜粋)(2016年12月25日撮影)
2017年2月7日に中山神社の近くに住む森玄保さんに中山神社にまつわる貴重なお話を伺って来ました。上記の写真は大正3年に建てられたもので、当時の中山神社の拝殿には壁がなかったそうです。それから徐々に現在のような姿になってきたそうです。(大正3年の写真には拝殿の壁がない。)
2017年2月7日に「つやま和牛」を肥育していらっしゃる久米川南の大﨏毅さんの牛舎をお尋ねしてきました。
「和牛の歴史:昔はトラクターの代わりに牛を飼っていました。当時の牛の良し悪しは、草などを背中に乗せるのにどんな形の牛が良いかが審査されていました。現在は、形も大切だが、その上に肉質が一番重要視されています。また、和牛は岡山県が発祥の地です。当時は牛は農耕のトラクターのような存在だったが、トラクターが出てきて牛をどうするか?と言うことで昭和40年に岡山で全国和牛能力共進会の第1回が行われました。当時のキャッチフレーズは「家畜が肉牛として使える。」だったように記憶しています。以後5年に1回開催されていて今年が第11回目です。」
「武徳殿跡」日露戦役の後、武徳の称揚民間に及び、武徳会津山支所のもとに各所に剣道場が設立されたが、西北部に新進の勢力を助長させるため、大正11年中山神社武徳殿の建設をみ、津山警察署の指導を得て一大進展をみるに至った。かくて勇士雲のようにでて小学校もまたこれに習い、地方の青年有志間においても諸武徳大会に、さらには昭和2年3月大日本武徳会岡山県大会(青年団体の部)優勝という輝かしい成果をおさめた。
昭和18年高田・田邑両村と連合して4ヶ村組合立青年学校を、昭和23年4月組合立津山高等学校中山分校、昭和29年7月に津山市に編入されるにおよび津山東高等学校となり、その後津山市沼の本校に併合され、今は中山神社の駐車場となっている。 (美作一宮の遺産を見つける会発行:美作一宮 郷土の遺産より抜粋)
2016年11月16日、津山国際ホテルにて、公益社団法人 津山市観光協会の主催で、津山お城まつり協賛「石の声を聴く」ー石積みの第一人者が語る津山城と石垣ーと題して津山城完成四百年記念講演会がありました。
講師は穴太衆積十四代目 粟田純司氏で、安土城、彦根城、高知城、竹田城など多くの史跡の石垣修復にあたられ、平成24年文部科学大臣より「選定保存技術保持者」に認定されておられます。(上記写真:挨拶は竹内佑宜津山市観光協会長)