金光山 多聞寺(下横野)

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津山市下横野 多聞寺
 多聞寺は、平安初期(西暦860年)に開祖された毘沙門天をお祭りするお寺で、当初は下高倉の寄松にありました。しかし、中世の山名・赤松の兵乱で兵火にかかり焼失しましたので、香々美の藤屋に避難しました。下横野の現在の地に再興されたのは、それから半世紀あまり経った西暦1500年以降で、盛衰を繰り返しながら今日に至っております。
 一宮大規模農道から下横野を望むと、一面に田園の広がる果ての、小高く白一直線の塀の中に多聞寺は、楼門・庫裏・客殿・本堂が調和よく佇んでいます。背後に中国山脈を控え、青空が広がるスケールの景観は、人々に故郷の安らぎと叙情を偲ばせることでしょう。

 比叡山延暦寺の流れを汲む寺の庭園は近江八景を模して造られ、比叡山から琵琶湖を望んだ景色を思わせます。
 長い歴史の間には多彩な人材と精神文化を育んできましたが、特に明治初年に義務教育が実施される時には、弘明小学校臨時校舎として、客殿を利用して下横野地域の教育の中心となっていました。
 この恵ま環境と景観にたすけられながら、人々の平和と仏の慈悲にあふれる郷土を念じて、朝夕の勤行を続けています。(資料提供:金光山 多聞寺)

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多聞寺山門                   庭

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多聞寺本堂                   本堂

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珍しい茅葺の客殿                多聞寺境内

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さくらの咲くころ                阿弥陀堂


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第九十世 水尾寂宣氏(大正12年8月15日没)   水尾寂宣氏の息子の片山潜氏


 江戸時代、幕府は神佛を庇護し、歴代住職は最早や戦火に追われること無く、鎮護国家を祈り、大衆教化と佛教文化の普及に努めましたので、檀信徒の尊崇も篤く護持されてまいりました。然し、封建時代が終わりを告げて明治政府に替わると、寺社の制度も改められ、加えて排佛毀釈や神佛分離の世情となって、寺院の運営は非常な困窮を招きました。時の住職寂道法印は、寺運を何とか挽回しようと種々に努力を試みましたが、時代の趨勢には克てず、当山住職を断念して東京の神楽坂の安養寺へ転任してしまいました。
 
 明治23年、寂道師の去った後を受けて住職に就いた水尾寂宣師は、勤倹努力して田畑山林を買い戻し、経営の建て直しにつとめました。梵鐘の鋳造や鐘楼門の瓦葺新築、本堂屋根の瓦葺きなども明治34年に完成し、佛具汁器なども殆ど元通りに整備されました。亦、徒弟の育成には殊の外厳格に意を用いましたので、寂宣師の門下からは多くの逸材や名僧が輩出しました。

 明治以降、文明開化の波に乗って、宗教界の諸制度にも、僧侶の妻帯公認や神佛分離令、国家神道の制定などがあり、日清・日露の戦役や第一次堺大戦を経て社会は急激な変化を見せました。その中で寂宣師の息子の片山潜は、資本主義経済の発達に伴なう貧富の差の拡大を憂い、労働者の福祉を希い、搾取無き社会の実現を目指して社会主義運動に身を投じましたが、当時の我が国には容れられず、遂にアメリカ合衆国に渡航し、更にヨーロッパを経て革命直後のソ聠邦に招かれ、コミンテルンを樹立の後モスクワ市に客死(西暦1933年)して生涯を終わりました。
 
 異母弟の清田寂栄師は寂宣師の衣鉢を継いで住職となり、美作佛教青年会を組織して地方文化の開発と窮民救済に貢献し、明治大帝の崩御による恩赦に際しては、美作各宗寺院や一般有志と共に自修会を組織して釈放者の保護誘掖、並びに司法保護思想の普及に尽瘁しました。亦、美作地方に施療事業の皆無なるを歎き、天台宗祖伝教大師千百年遠忌の記念事業として、西寺町大円寺に津山施療院を創立し、寂栄師の女婿である大円寺住職清田寂坦師を院長に推挙して内外の経営に当たり、後援会や財団法人設立に努力しました。其の他、地方各種の紛擾調停、青少年の感化育成、乳幼児の保護施設、労資の協調、婦人会や青年団の指導に従事して多数の成果をあげました。端正堂々たる体軀と円満侵し難き風格の中に、天台教学法儀の蘊奥を極め、漢字・詩文・茶道・華道・書道などの教養も深く、近世稀れなる洪匠として人々に知られています。

 寂栄師の弟、水尾寂暁師は比叡山に住持し、其の学徳と衆望に依り信州善光寺の別当大勧進に推されました。生涯食肉妻帯をせず、清僧として多くの徒弟を育てましたので、その門下の徒弟は現在全国に散在しています。其の他、寂宣師の薫陶による師子相承の流れは数々の発展をしてきました。

 扨而、大正から昭和の初めにかけては、日本が諸外国との交流の中で、次第に戦争の渦中に突入して行った時代です。