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取材記事内を検索ワード「博物館」で検索した結果,142件の記事が見つかりました。

文化財めぐり(近長~杉宮周辺を歩くNo.1)

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2018年3月10日の晴れた日に、津山郷土博物館主催の第114回文化財めぐり(近長~杉宮周辺を歩く)に参加して来ました。出発は津山市野村にある成名公民館駐車場10:30出発です。今回は近長から杉宮周辺です。周辺には土浦藩の代官所跡や、多くの石造物などが残されており、歴史のある地区となっています。道のりは約7.5kmです。(2011年 川港が栄えた町楢の今
No.1は、念仏講碑・近長四ツ塚古墳群→近長代官所跡・八坂神社→八幡神社までです。続きはNo.2で

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平成28年度 津山郷土博物館特別展「江戸での火消行列図」

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平成28年度特別展「行列を組む武士たちー津山藩松平家の行列図よりー」H28.10.8~11.20
大名火消と松平家
はじめに
 「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど、江戸の町では火災が多く発生し、時には江戸城を含む広範囲を焼失する大火になることもありました。そのため、当初は消防組織のなかった江戸の町に、やがて階層ごとに編成された消防組織が置かれるようになります。町人は町火消、旗本は定火消、大名は大名火消という具合ですが、大名火消は所々火消と方角火消、各自火消に区別できます。前の二つは決められた場所の消火に当たるもので、後の一つは藩邸近隣の消火に出動するものを指します。ここでは、主に前の二つについて、松平家の事例を紹介します。

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平成28年度 津山郷土博物館特別展「行列を組む武士たち-津山藩松平家の行列図より-」

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ごあいさつ
 津山郷土博物館では、市民の皆さんに郷土の歴史や文化への理解と認識を深めていただくため、定期的に特別展を開催しています。このたび「行列を組む武士たち-津山藩松平家の行列図より-」というテーマで特別展を開催することとなりました。
 江戸時代の支配階層である武士たちは、移動や旅の時に行列を組んで進みました。この行列は、その主人の武威や格式を体現したものであり、単なる行進ではありません。そのため、供の人数や持たせる道具の構成などに細かい決まりがあり、その決まりの中でできる限り立派に見せようと競い合うこともありました。
本展では、津山藩松平家に伝わった各種の行列図のほか、乗物や熊野槍など行列に用いられた道具類を合わせて紹介し、武士の行列を通して江戸時代の社会のありようを概観します。
 今回、現存する松平家の行列図を全て展示します。その中でも、松平家が十万石に復帰した直後の入国行列図は、横長のふすま七枚に仕立てられた。全長十三メートルを超える巨大なものです。大名行列の詳細を視覚的に把握できる貴重な資料として注目されており、津山市庁舎の市長応接室の壁紙にも利用されていますが、その全てを一度に見られる機会はなかなかありません。本展において、多くの方々にその迫力をご体感いただければ幸いです。
 最後になりましたが、本展の開催にご協力いただいた全ての皆様に、心から感謝申し上げます。
   平成二十八年十月八日
    津山市教育委員会 教育長 原田 良一

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【津山人】彫書家 彫無季

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 彫無季(本名河野省三・1904~1992)は明治37年岡山県苫田郡津山町三丁目(現津山市本町三丁目)に生まれました。大正9年(1920)岡山県立津山中学校を中途退学し、2年余り中国上海に遊学しました。同13年(1924)帰国ののち上京し、翌年東京蔵前工業専門学校に入学しましたが、2年後に中退しました。
 その後、叔父の経営する工場の仕事を手伝いながら、独学で中国の拓本などを学習しつつ、自らの書の工芸を模索しつづけました。そして、ついに書と彫刻が一体となった彫書という新しい芸術を創造しました。
 昭和29年(1954)初の「彫書」個展を開催、以後個展の開催や各種揮毫、著書の出版など縦横無尽に活躍しました。また、昭和41年(1966)には淳和会を発足させ、後進の指導にも努めました。平成4年東京で没。享年87(文:平成18年3月18日津山市教育委員会「彫無季の芸術」より)(写真:津山郷土博物館特別展図録『彫無季の芸術』より転載)

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西東三鬼の句碑

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(2017年8月20日撮影/津山駅前国道53号線沿い)
西東三鬼
明治33年(1900年)、津山市生。昭和37年(1962年)没。
新興俳句の旗手として活動の先頭に立つ。山口誓子を擁し「天狼」を創刊し、初代編集長を務める。自らも「激浪」「断崖」を主宰した。毎年4月1日には墓碑のある成道寺で、門下生や由縁の人々によって三鬼忌が行われている。また、津山郷土博物館には彼の遺品や遺墨などが集められ公開されている。

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【津山人】大谷是空(藤治郎)

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 大谷是空は(本名藤次郎)は、美作国西北條郡西苫田村大字山北の地に慶応3年(1867)10月27日、父為吉の次男として生まれた。和田克司著『正岡子規と大谷是空』によれば、子規が「筆まかせ」において、是空を親友と呼んだように、子規の青春時、是空はもっとも親しい子規の友人であり、心許した仲だったそうだ。
 明治17年(1884)に上京、進文学社に学び、次いで東京大学予備門に入学、在学中に第一高等中学校となり、5年経ったころ発病、22年に静養のため郷里に帰った。当時津山には小学校以上の公立学校はなかった。たまたま東京の青年協和会の手で学校を建てる募金のために有志が帰って来た。東京に美作人のための学校をつくろうとしたらしい。これに対して大谷是空は、東京のことは東京でせよ、われわれは郷里のためにやると決意、地元の有志やら、周辺の郡長によびかけ、普通学校が建った。これが動機となって、津山中学校が建つことになり、大谷は初期の教師となって、津中の教壇に立った。しかし明治30年には大阪に出て生命保険会社に就職、さらに東京汽船会社へ、それが合併して日清汽船となり、事務的才能を発揮した。 

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明治150年記念「洋学資料館所蔵資料から見た文明開化と美作の医学」

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描かれた文明開化
 明治になると、浮世絵師たちは、文明開化という新しい時代の世相を描きました。これらは「開化絵」と呼ばれ、西洋風の絵画表現が取り入れられ、目新しいものや風景や生活などが好んで題材に選ばれました。
 江戸時代には政治批判、風紀風俗の乱れ、奢侈という3点が検閲により取り締まられ、幕府に対する批判が少しでも疑われると処罰されました。また、徳川家や同時代の事件・出来事を題材にすることは禁じられていました。しかし、1875(明治8)年に検閲が廃止されると、最近の事件も題材にすることができるようになり、ジャーナリズム的要素が加わることになります。そして、以前なら政治批判とも取られかねなかった、天皇や皇族の姿なども描かれるようになりました。
 やがて、写真や新聞など新しいメディアが台頭し、浮世絵は衰退していきます。「開化絵」はその終焉を飾ったのです。


↑ 上記絵は、(参考)新吉原 尾張屋三階之図 明治時代 三代目歌川国貞
 新吉原にあった尾張屋を歌川国貞(三代目)が描いています。明治時代になると、安価な化学顔料を用いた浮世絵が描かれました。特にアニリン紅を多用したものは「赤絵」と呼ばれ、その毒々しいまでの赤色はこの時期の浮世絵の特徴となっています。この絵にも見られる鮮やかな赤色は当時の人々にとって最も身近に感じられた西洋の息吹として捉えられたといわれています。

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津山城外濠跡(津山市指定史跡)

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 かつて津山城には内山下と呼ばれる総曲輪があり、その外周を土塁と濠が囲っていた。明治の廃城以後、同20年(1887)頃までには土塁を崩して濠を埋め立て、内山下は市街地に組み込まれた。そのため、この総曲輪の区域で旧状をとどめる箇所はほとんどないのだが、京橋口桝形の土塁・石垣の一部と、宮川口~京橋口間及び二階町口の南北の濠の名残りとして水路が残っている。

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津山郷土博物館(山下)

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耐震改修工事に伴い、平成32年4月までの予定で、現在休館中です。
津山郷土資料館 1)行政/役場・警察署 2)津山市山下92 3)昭和8(1933)年 4)津山市庁舎
 昭和4(1929)年2月の合併当初、津山市の庁舎は、明治7(1874)年に小学校の校舎として建てられた元津山町役場を使用していました。その後、新庁舎建設の気運が高まり、昭和8年7月、津山城跡の南麓に、地上3階、地下1階建ての鉄筋コンクリート造として竣工しました。

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【津山人】浅本鶴山 -放浪の陶工-

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 放浪の陶工、鶴山は明治18年(1885年)津山に生まれ、2歳のとき、林田で開窯していた浅本房吉(旧姓杉崎)のもらい子になった。高等小学校卒業のころのちょうど13歳のとき、当時津山市二宮の窯へ移っていた父房吉から轆轤の手ほどきを受けたという。以後、淡路の眠平焼に行って修業を積み、さらに、兵庫県出石の「シケ場」へ。その後、伊部、明石の朝霧焼、稲見へ次から次へと、それこそ、轆轤一丁肩にかけ、ひょうひょうと、渡り歩くこと約十数年。しかも、その間、京都陶器試験場の場長の藤江氏の世話になったり、また、陶器学校で三年ほど仕事をしたりした。
 明治44年(1911年)静岡県の賎機焼に行き、そこに腰を据えて約20年仕事をした。もっとも、その間、たびたび津山に帰ったし、また、昭和10年(1935年)には、福岡県赤崎焼へも行っている。二十五歳のころ、赤磐郡佐伯町から嫁をもらった。一応幸福な中年期を過ごしたが、突然、子どもが病死し、続いて妻も失い自暴自棄になった。

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