津山土岐家歴史資料展

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  2019年2月10日(日) ・ 11日(月) 津山市田町の津山土岐家財団記念館にて、津山市制施行90周年記念事業「津山土岐家歴史資料展」がありました。津山土岐家から津山郷土博物館に寄贈した歴史遺産(津山松平藩士の甲冑、刀剣、書画など)数百点のうち、主な歴史資料十数点が公開されました。とても保存状態の良い品が目の前で拝見できました。

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2月10日の土岐記念館の様子です。                大勢の人です。

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土岐家の屋敷地
土岐家が松平藩主に召し抱えられた当時(元禄十・1698年)の拝領屋敷の場所は不明ですが、この絵図を見ると、幕末(嘉永7・1855年)には、現在の土岐家記念館(田町99番地)の所在地にあったことが確認できます。
 広さは20間半(37m)四方、およそ420坪(約1,400㎡)あり、津山城下の武家屋敷としては標準的でした。
隣が一場家(雪荷派)で、近くに川﨑家(印西派)もあり、弓術師役の家屋敷が集中しています。

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土岐家家伝の甲冑
甲冑の兜には、釘抜きを図案化した鍬形に剣大の合印を組み合わせた前立があり、松平家の家臣であることを示しています。保存状態は極めて良好であり、江戸時代はもとより、その後の歴代の投当主が、家の歴史に誇りを持って大切に保管してきたものと思われます。

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↑ 大名火消の火事装束              ↑ 津山土岐家の道中着
この火事装束は、火災の起こっている場所へ出向く時に着る羽織で、燃えにくい厚手の素地で作られています。
火事場で目立つ黄色が選ばれ、羽織の背面や胸当てには、土岐家の「桔梗紋」があしらわれています。大名火消の行列に参加した武士を印象付けるものです。
幕府の膝元・江戸では火災が多く、津山松平藩も度々防火出動を命じられました。浅草米倉などの防火を担当したり、江戸城延焼の恐れがある際の大手・桜田両門の防火に当たったりしました。土岐家当主も、江戸参勤の際には大名火消行列に参加していたでしょう。

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↑ 津山土岐家の陣羽織
陣羽織は、武将が陣中で防寒や防雨のために、鎧の上に着用した羽織です。戦場での存在の顕示のための装飾的要素も加わりました。
 津山土岐家の家紋は「水色桔梗」ですが、この陣羽織の胸当てには「左卍紋」が入っています。武家は、先祖代々受け継いだ家紋とは別の替紋・裏紋も使っていたようです。
卍紋は、仏教では、幸福の前兆として知られ、戦の勝利を招くものとして、また津山土岐家が清和源氏の系統であることを示すものとして使われたとみられます。

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飯塚竹斎の山水画
飯塚竹斎(1796~1861)は、広瀬臺山と並ぶ津山藩の代表的な文人画家。
津山藩士の広瀬半助の三男として、江戸の津山藩下屋敷内士邸で出生し、12歳の時に津山へ帰る。
幼い頃から画才をみせ、広瀬臺山や江戸の谷文晁に師事。23歳の時、飯塚家の養子となる。
津山藩の御用絵師ではないが、優れた画才を発揮し、藩から度々画を描く仕事を命じられていた。
津山・苅田家では広瀬臺山及び飯塚竹斎の文人画を多く所蔵。

狩野松甫の花鳥図
狩野松甫(宗信1802~1872)は、津山松平藩の御用絵師。もとは土浦藩主土屋家の浪人山本勇助の子。
御用絵師の中では最も多くの作品が残る。
津山松平藩の御用絵師は、狩野派の門流であった。
津山狩野派の祖とされる狩野洞学(不明~1743)の後、洞学の養子であった狩野如林の如林系と、絵師として召し抱えられ狩野姓を許された狩野如水の如水系の二つの狩野家が存続した。狩野松甫は、如林の孫の如泉の養子で如林とも号した。

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写真向かって左:備州長船祐定 天正二年八月作
室町時代中期から後期にかけての備前長船刀工を総称して「未備前」と呼ぶ。その中でも、最も繁栄したのが祐定の一派で、彦兵衛尉・与三左衛門尉・源兵衛尉などの俗名を関する祐定が署名。
本刀は、銘に俗名を冠していないが、天正二年八月の作。天正の頃には「天正祐定」と呼ぶ「藤四郎祐定」・「七朗右衛門尉祐定」・「七朗衛門祐定」が代表工で、本刀はこのうちの一人の作か。

写真向かって右:長船康光作
室町時代の備前長船の名工康光の作。
康光は、室町時代・応永(1394~1428年)の三光(康光、盛光、師光)と尊称された名工の1人。
備前長船派は、鎌倉後期に興った刀工集団で、備前国邑久郡長船(現在の瀬戸内市長船町)を拠点とした。
長船光忠を租とし、鎌倉期においては、長光、真長、景光を長船3作とする。
安土桃山期の本阿弥光悦(1558~1637)は、長光・兼光(鎌倉)・元重・長義(南北朝)を長船四天王として推奨した。

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髙井越前守源信吉作
越前守源信吉(1673~1681)は、京山城初代信濃守信吉の三男で、名を高井金三郎という。
山城国に住して作刀し、晩年は大坂に移住。
銘を「高井越前守信吉」、「入道源来信吉」などと切り、その作風は沸本位の互いの目乱れを焼き、信吉の同銘が数代続く中で、越前守信吉が最も技術が高く、直刀では「大坂正宗」と呼ばれた大坂の名工である井上真改に迫ると言われる。

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土岐家伝来文書中の印西派弓術師範系統図     津山藩の辞令 土岐雄助宛 3通

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津山土岐家の弓術関係古文書
 土岐家伝来の古文書のうち、弓術関係のものは約30点確認できますが、いずれも断片的で、当時どのように弓術の稽古していたのか、師役として具体的にはどんな仕事をしていたのかなど、詳細は調べられそうにありません。
 弓術関係の古文書の多くは、邪気を払う鳴弦・蟇目の作法およびその際の神事・呪文に関する文書のようです。弓や矢など道具の図解を交えて説明されています。
(文:土岐家説明より)(2019年2月10日・11日撮影)