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秘史後南朝の里・高根を歩く「如意輪観音寺跡」

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秘史 後南朝の仙洞御所の地、高根について「如意輪観音寺跡」貞和3年の石造(宝塔)
 酒本武都主氏の親切な道案内により、その幻を求めて歩きました。翌日の令和3年6月4日地区に古い物が多くあることを知ったことにより、せめて石造物の文字だけでも正しく読んでみようと、独り調査に入った。この日私的には大変なものを確認できた。
 地元では先人達が、「高仁山長福寺境内 如意輪観音寺跡」と言われる場所には宝塔(仮)があり、それには(判読)「貞和三丁亥天〇〇(1347) 願主 万門」と彫られていることに気づいた。
 これは町内で重要文化財指定されている
  間 山  四角宝塔康永3年(1344)
  一本松  如意経塔延文6年(1361)
  東光寺  油地蔵 康暦2年(1380)県指定
 この中では二番目のものである。手水鉢には昔は髙仁であったとも奉納者が示していた。
 かつて秘史を語ってきた人達は以上のことを知っていたのでしょうか。詳しくは後日の調査を待つことにして地元区長へ中間報告することとした。参考文献:『博士 川勝政太郎著 石造美術入門・同 石造美術の旅』より(文:勝央町文化財保護委員会 委員長 赤木耕三)

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つながる「出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会 万能乢コース(2)

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 つながる「出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会 万能乢コース(1)からの続きです。今回のコースは比較的になだらかな所が多かったため歩くのが楽でした。また、事前の調査、古道の整備など「勝間田宿の会」、「土居宿を後世にのこす会」、「勝山宿の会」の方々のご努力に感謝しながら歩いてきました。


 今回の「つながる出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会は、特別企画 第4弾として、万能乢より江見までを、「勝間田宿の会」を主催者にして、「土居宿を後世にのこす会」と「勝山宿の会」とで共催して開催いたします。また、万能乢コースと別に、古代より開けた「杉坂峠コース」がありますが、このコースは又の機会に譲り、参勤交代が始まった江戸中期(慶長9年頃)より、土居宿が設置され「万能乢コース」が開発されたので、今回は同コースを歩きます。

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つながる「出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会 万能乢コース(1)

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 はじめに
 出雲街道とは、播磨の国、姫路に端を発し、出雲の国、松江に至る約215Kmの古道を言う。また、一説によれば松江の先、出雲大社とも言われている。
 大和朝廷が、武力で全国を平定としたのに対し、出雲は神話に登場するが如く、平和裡に国譲りが行われ、朝廷より優遇され、鉄の産出も始まり、街道は繁栄してきました。
 街道は人、物、文化を運ぶ役目を果たし、その重要性は五街道(東海・中仙・甲州・日光・奥洲)に匹敵し、同等の街道として発展してきました。
 その後の街道は時代と共に、道筋は変遷、消失を繰り返していますが、現存している道で2コース有る場合は、合理性が高いか、最も古い道を採用しています。
 今回の「つながる出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会は、特別企画 第4弾として、万能乢より江見までを、「勝間田宿の会」を主催者にして、「土居宿を後世にのこす会」と「勝山宿の会」とで共催して開催いたします。また、万能乢コースと別に、古代より開けた「杉坂峠コース」がありますが、このコースは又の機会に譲り、参勤交代が始まった江戸中期(慶長9年頃)より、土居宿が設置され「万能乢コース」が開発されたので、今回は同コースを歩きます。(文:特別企画(第4弾)出雲街道(Ⅱ)を歩こう会 主催:出雲街道 勝間田宿の会、共催:土居宿を後世にのこす会・勝山宿の会案内より)

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慈恩山 寶積院 普門寺(美作市)

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慈恩山 寶積院 普門寺
 当山は、承久2年(1220)に、僧快運によって開創されたお寺です。
 初めは峠村(現在の美作市川北)にあったと伝えられ、また、市内藤生字宮の向こうにも普門寺の碑が数基残っています。元禄10年(1697)の記録には、川崎邑慈恩山普門寺云々とあります。これからみますと開基以来、盛衰を繰り返し、峠村から藤生を経て、川崎(現在の美作市江見)へ三転したものと思われます。
 本堂は、寛延2年(1749)に中興し、明治34年に再建されていましたが、平成17年に本堂に位牌堂を併設したものを新築し、周辺設備を終えました。
 庫裡は昭和55年、客殿は昭和12年、鐘楼は明治2年に再建、鐘は昭和21年に再鋳したものです。(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年9月19日撮影)

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出雲街道を歩こう会「江見~ノースヴィレッジ」【2】

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2021年10月24日(日)特別企画第3弾 つながる「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会「ふるさと再発見 美作国歴史遺産の古道」(区間 美作市・江見~勝央町・ノースヴィレッジ9.3Km)【2】

郷土記念物 笠懸の森
 元弘2年(1332)後醍醐天皇が隠岐に流される途中お休みになられ、武士の笠懸の技をご覧になった故事から名づけられたこの森は、現在では11本の木々に覆われ荒神様を祀る鎮守の森となっています。中には、天保年間の荒神さまの石灯籠や文久年間の墓、また、その他現在に至る記念碑など様々な石造物が笠懸の森の中に混在し、現在でも信仰の対象として祀られています。
 また、樹齢300年のムクノキの巨木をはじめ、エノキの巨樹が繁茂しており歴史の古さを物語っています。(文:現地看板より)

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出雲街道を歩こう会「江見~ノースヴィレッジ」【1】

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 2021年10月24日(日)特別企画第3弾 つながる「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会「ふるさと再発見 美作国歴史遺産の古道」(区間 美作市・江見~勝央町・ノースヴィレッジ9.3Km)【1】
はじめに
 出雲街道とは、播磨の国、姫路に端を発し、出雲の国、松江に至る約215Kmの古道を言う。また、一説によれば松江の先、出雲大社とも言われている。
 大和朝廷が、武力で全国を平定としたのに対し、出雲は神話に登場するが如く、平和裡に国譲りが行われ、朝廷より優遇され、鉄の産出も始まり、街道は繁栄してきました。
 街道は人、物、文化を運ぶ役目を果たし、その重要性は五街道(東海・中仙・甲州・日光・奥洲)に匹敵し、同等の街道として発展してきました。
 その後の街道は時代と共に、道筋は変遷、消失を繰り返していますが、現存している道で2コース有る場合は、合理性が高いか、最も古い道を採用しています。
 今回の「つながる出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会は、特別企画 3弾として、美作市江見より勝央町・ノースヴィレッジまでの街道を歩きました。
主催:出雲街道 勝間田宿の会、共催:出雲街道 土居宿を更生にのこす会・出雲街道 勝山宿の会

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森大膳亮重政・母親(於竹)の屋敷跡

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 この段が森大膳亮重政君の住居跡だそうです。
住居の跡は、部落から一段と高くなった所にあって、後ろに山をひかえた、かなりの広さをもっていたもののようだ。現在は田となっていて「屋敷」、「屋敷の段」という地名となってのこっている。この屋敷のうしろの山の中腹にみられる古い墓は、供の人達のものであろうと伝えられている。
 森大膳亮重政は、津山藩初代藩主森忠政の長男として文禄二年(1593)、当時忠政が治めていた美濃国(現在の岐阜県)金山で生まれました。第二子という説もありますが、正しくは長男で、側室の子であったことと病弱であったため、相続権はなく、嫡子(ちゃくし)忠広の庶兄として育てられたようです。
 忠政が津山藩主として美作へ来た際には真経に屋敷を構え居住していました。おそらく病身のため藩の任務に就くことが困難で、真経の静かな地で療養をしていたのでしょう。そして、元和四年(1618)にこの地で亡くなります。26歳の若さでした。(2021年9月12日撮影)

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関長治・関政辰墓所(西来寺)

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 関長治は津山藩主森氏の一族(森長継の五男)で、関氏の養子となっている。
 父の森長継は初代津山藩主森忠政の娘の子で外孫である。
忠政は嫡子忠広に先立たれ、外孫である長継を森家の後継ぎとした。長継の実家関氏は森家の家臣で、長継の母は森忠政の娘である。また長継の実父関成次の母は森可成の娘である。

曹洞宗 清瀧山 西来寺 元禄十一年(1698年)
 徳翁良高禅師は、新見藩主関長治に現地を与えられ風木谷にあったと伝えられる西来庵を再興した。禅師は師僧月舟宗胡禅師の遺骨を宇治禅定寺より、開山として迎え自らは二世中興に下った。以降、藩祖関長治、四代長辰の二基を中心とした関家の菩提所となる。(文:現地案内より)

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美作の大庄屋巡り「矢吹家」(美咲町)

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矢吹家 矢吹孫左衛門 勝南郡行延村 森藩
大庄屋まで
 矢吹氏は、平氏と密接な主従関係を結んでいた備前の難波氏から出ているという。文明年間(1469~1486)羽仁の鴛淵城(おしぶちじょう)にいた難波九郎左衛門の後裔難波信正は、荒神山城の花房職秀の家老を務め、神楽尾城攻めに当たっている。職秀が荒神山城を退去した後、行信村で帰農した。
その後、三郎左衛門は難波から矢吹を名乗り、孫左衛門が貞享2年(1685)大庄屋に任命された。
大庄屋として
 大庄屋を勤めた孫左衛門は、貞享3年、4代藩主森長成の家督相続祝いに植月新右衛門、粟井六郎右衛門、立石五郎右衛門とともに江戸へ行っている。矢吹家は、森藩改易後も庄屋や中庄屋などを勤め、当主は日記を残している。これが『近世行信略記』『矢吹禄』としてまとめられて、のちに『近世作南農村史料』(矢吹修編)として刊行されている。

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森忠政の義母生光院霊屋(久米南町)

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生光院霊屋(みたまや)
 創建時の名称、美作国主初代森忠政がその義母生光院のために建立されました霊屋で、正面須弥壇には、生光院が生前崇拝の弥陀如来立像と生光院の位牌とを安置されました。施工者は大阪の番匠勝右衛門、当時の住職は第12世深誉。
 生光院は柴田勝家の女で、初め塙備中守直政に嫁し、直政死後原隠岐守に再嫁せられ天正11年(1583)隠岐守戦死により生光院はその子長満(4歳)の成長を護るうち天正18年(1590)秀吉は長満が勝家の外孫であるの故を以て、之を殺した。生光院は悲しみのあまり全く志を失い越前大野木に隠棲するようになり大野木氏ともいわれます。
 森忠政は、塙直政の養子となる約束がありましたが、直政死のためそのままとなり慶長8年(1603)美作国主として津山に来られました。慶長15年(1610)大野木氏が越前に存世のことを聞かれ、大いに懌び、家臣川村左介を特派して大野木氏を津山に迎え250石を給するなどして配慮至らざるなく、常には家臣富田久右衛門を傅として諸般世話せしめられました。

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