森大膳亮重政・母親(於竹)の屋敷跡
この段が森大膳亮重政君の住居跡だそうです。
住居の跡は、部落から一段と高くなった所にあって、後ろに山をひかえた、かなりの広さをもっていたもののようだ。現在は田となっていて「屋敷」、「屋敷の段」という地名となってのこっている。この屋敷のうしろの山の中腹にみられる古い墓は、供の人達のものであろうと伝えられている。
森大膳亮重政は、津山藩初代藩主森忠政の長男として文禄二年(1593)、当時忠政が治めていた美濃国(現在の岐阜県)金山で生まれました。第二子という説もありますが、正しくは長男で、側室の子であったことと病弱であったため、相続権はなく、嫡子(ちゃくし)忠広の庶兄として育てられたようです。
忠政が津山藩主として美作へ来た際には真経に屋敷を構え居住していました。おそらく病身のため藩の任務に就くことが困難で、真経の静かな地で療養をしていたのでしょう。そして、元和四年(1618)にこの地で亡くなります。26歳の若さでした。(2021年9月12日撮影)
宇佐美家の墓地 重政君の屋敷跡(現在は建て替えられている)
「小規模多機能型居宅介護わかば」の代表をしていらっしゃる宇佐美さんに案内して頂きました。
一段低くなっている処に宇佐美家があります。
宇佐美さん曰く「森忠政公が金山から津山に来た時に、宇佐美家も一緒に来たそうです。おそらく重政君を守るために付いてきたのでしょう。」とのこと。
屋敷の段全景 「小規模多機能型居宅介護わかば」の下が馬場
施設のすぐ下に馬場があったそうです。
現在「屋敷」の南端を南北に通っている町道の南側に馬場があって、馬のけいこをしていたという。
また、『森家先代実録』には、重政君の母親(森忠政側室)もこの地に住んでおり「溝尾に移住す」とあります。現在の大谷橋から約200m奥に「溝の尾」という所があり、ここに母親の屋敷があったと思われます。
重政君の母親(於竹)は山内源左衛門の養女にて香々美という。川中島より引越し作州かが美の溝尾に居住す。故に皆人呼んで香々美という家女なり。万治三庚子年五月二十五日作州にて死す。八十九歳。同所法源山宗永寺に葬す。―清泰院栄厳寿永大姉
清泰山栄厳寺にも位牌があり。清泰山松寿院に墓碑あり。分骨して寺内に納む。
森忠政側室(於竹)のお墓です。―清泰院栄厳寿永大姉
津山市小田中にある宗永寺の中に大きな見上げるほどの墓石があります。
町の長老が門を開けてくださいました。 小川と旧道
大八車がやっと通れるくらいの旧道
たしかここが屋敷跡だと聞いていますが詳しいことは分からないそうです。
屋敷跡と言われていたところ。
屋敷跡と言われていたところ。
今は木が茂っていてうす暗いですが、昔は田んぼが広がっていてもっと明るかったそうです。
この道は宇佐美さんが子どもの頃、木材を大八車に載せて運んでいた道だそうです。
入口近くにある平らな所も屋敷跡かも知れないそうです。
『香北ふるさとの伝承』によれば、「大谷橋から約二百米ほど奥に入った所に「溝の尾」がある。重政君の御母堂香々美殿が住まわれ、重政君の日常を視護されていたのではないかと言われている。」とのこと。
宇佐美家の一角にある素敵な部屋は、息子さんが結婚するときお祝いで作ったのだそうです。
気の合った仲間と集うのが楽しいそうです。