八出天満宮の梅の花
2016年3月6日、3月10日に八出天満宮の梅の花を見に行って来ました。予てから一度、満開の梅の花が咲いた所を見てみたいと思っていました。梅の木の足元には可愛らしい水仙の花も咲いていました。この八出天満宮は広く美作地方一円の人々からは古来「学問の神」「書の神」として崇敬され、信仰を集めてきた全国の天満宮の中でも稀な縁起と最古に位置する起源を持つ由緒あるお宮です。軒先には沢山の合格祈願の絵馬がかかっていましたよ。
2016年3月6日、3月10日に八出天満宮の梅の花を見に行って来ました。予てから一度、満開の梅の花が咲いた所を見てみたいと思っていました。梅の木の足元には可愛らしい水仙の花も咲いていました。この八出天満宮は広く美作地方一円の人々からは古来「学問の神」「書の神」として崇敬され、信仰を集めてきた全国の天満宮の中でも稀な縁起と最古に位置する起源を持つ由緒あるお宮です。軒先には沢山の合格祈願の絵馬がかかっていましたよ。
第11回「院庄たかのり祭り」(春季大祭)が、2015年4月12日に執り行われました。毎年4月第2日曜日に行われるまつりは、多くの参詣者で賑わいます。今年は、さくらは既に散っていましたが、多くの老若男女が訪れて盛りだくさんのイベントを楽しんでおられました。また、作楽(さくら)神社は、鎌倉時代に美作(みまさか)守護職の館があったところで、境内全体が大正11年(1922)に国指定の文化財(院庄館跡)となっています。
(第9回 院庄たかのりまつり)
忠臣蔵といえば、赤穂浪士の復讐の物語で、全国津々浦々まで知れ渡っている。赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのが、元禄15年12月14日であったため、現在に至っても年の瀬が近つくと、必ずといっていいほどメディアによって放映さている。
私が太平洋戦争のさなかに勝間田国民学校に在学していた頃、毎年12月14日には、先生に引率されて、黒土地区にある赤穂浪士の1人神崎与五郎の両親の墓参りをしていた。その頃から神崎与五郎が私たちの郷里で、家族と共に何年か過ごした後、播州赤穂藩に仕官したのどということが分かり、子ども心にも誇らしく思っていたものである。
神崎与五郎則休は、美作津山藩主森家に仕えていた神崎又市光則を父として、寛文6年(1666)津山城下で生まれた。生母は元禄3年(1690)8月に病没し、津山市愛染寺に葬られている。
いつも通るたびに気になっていた梅林が綾部にあり行って来ました。ここは池だった所を埋め立てた梅林なんだそうです。綾部西梅組合の18人で管理なさっているそうです。梅の木に札が下がっていましたが梅の種類は5種類で、小梅が一番先に咲くのだそうです。そして、一番最後に咲くのが玉英で、主にJAなどに出荷されているそうです。そして梅の花も白・赤・ピンクとあり、梅の花のい~い匂いが漂っていました。(上の写真は2015年3月23日撮影)今年は暖かいのか早めに咲いていました。
真宗 大谷派の寺院、超日山 明顕寺(2015年3月15日撮影)
「忠臣蔵」で知られる赤穂義士の1人、神崎与五郎(1666~17033)が妻に宛てた直筆の手紙や、借用書など7点の史料が明顕寺(相生市陸本町)で発見された。今までは「赤穂義士の神崎与五郎関係の書状」と聞かされていたが、一般に公開されたことはなかったそうです。神崎は城明け渡し後、元禄15年春に江戸へ下向するまでに那波に移住。同寺は同年に那波の得乗寺から分寺したとされるため。
与五郎は江戸で商人を装い、吉良邸の奉公人らから内部の様子を聞き取るなどして討ち入りに貢献したとされる。(情報提供:真宗 大谷派の寺院、明顕寺)
2015年12月6日(日)津山郷土博物館友の会 第107回 文化財めぐり「森長継の生母 渓花院ゆかりの史跡探訪」があり、本源寺(森家墓所)を拝見してきました。
本源寺(森家墓所)
本源寺の由緒:山号は東海山、臨済宗東海派。元は足利尊氏が創建した神戸村の萬松山安国寺。森忠政の美作入国時に小田中に移転。慶長12年(1607)忠政夫人の於岩が没すると西今町の北方に埋葬され、ここへ再び安国寺を移転し龍雲寺と改称、森家から200石の寄進を受けて菩提所となり、元和年間に山号が東海と改められた。寛永11年(1634)に京都で急逝した忠政は大徳寺三玄院に葬られたが、津山の龍雲寺にも供養墓が建立された。天和3年(1683)忠政の50回忌に当たり、法名にちなみ本源寺と改称。(矢吹正則『津山誌』参照)
町並み保存地区を中心とした勝山市街地で2016年3月2日(水)~3月6日(日)まで開かれた「勝山のお雛まつり」は訪れる人びとをわくわくさせてくれます。旧出雲街道として栄えた勝山の民家らしい風景が今年のメインビジュアルだそうです。今年はいろんなお家の中を拝見させていただき発見することが多い勝山のお雛まつりでした。まず、河川敷の駐車場があんなに広かったとは知りませんでした。(2016年3月5日撮影)
「勝山のお雛まつり」に出かけてきました。いつも進化しているように感じる勝山の雛まつりは今年も大勢の見物客で賑わっていました。また、5日はぽかぽかの暖かい日差しだったので道行く家族連れもウキウキした感じでした。ここ御前酒蔵元如意山房でも「蔵元のお雛まつり」があり、辻家に代々伝わるお雛さまや、花嫁衣裳などの華やかな着物の数々、子どもの袴などの展示もあり見ごたえがありました。また、与謝野晶子さんをはじめ大勢の文人・墨客や作曲家の三木稔さんなどが、勝山の辻家を訪れていたそうです。 (取材2016年3月5日)
城東むかし町家(旧梶村邸)は江戸後期から昭和初期にかけての城東地区を代表する屋敷として大切に保存されているお屋敷です。毎年、お雛まつりの季節になると行って見たいところの一つです。今年も全国土雛展があり行って来ました。3月2日(水)~4月3日(日)まであります。[9:00~16:30火曜日は休館日] また、江戸時代の商家跡、梶村邸広間に七段飾りのお雛さまが飾られています。是非、ご覧ください。おススメです。(撮影2016年3月4日)2016年のスケジュール
西寺町・渓花院跡(新高倉稲荷神社境内とその南東)
寺院としての渓花院の由緒:臨済宗東海派。
渓花院の没後、元和初年に夫の関成次が亡き妻の菩提を弔うため、天倫を開祖として墓所の側に堂宇を建立。承応元年(1652)大名の待遇を得た次男の関長政により装飾が加えられ、長男で藩主の長継からは10人扶持を寄進。隠元が「渓花院」の3文字を大書した銅製の扁額もあったという。森家改易で関家が新見に移ると衰退し、無住となる。明治17年(1884)の時点で、境内は東西17間(約30m)・南北14間半(約20m)。明治末期に今の倉敷市連島辺りに移転したらしく、弥勒菩薩を本尊として本堂・庫裏・土蔵など630坪の境域と信徒300人を有し、岡山の国清水の末寺として亀島に渓花院という臨済宗妙心寺派の寺院が存在したとの記録があるが、その後に廃絶した模様で、その詳細は不明である。(矢吹正則『津山誌』・本源寺萬愚誌「森関宗廟由来記」・『浅口郡誌』参照)(2015年12月6日津山郷土博物館第107回文化財めぐり)