取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「重要文化財」で検索した結果,155件の記事が見つかりました。

備中松山城(高梁市)

matsuyama.jpg

備中松山城跡(高梁市内山下)国指定史跡
 備中松山城跡は、高梁市にある山城です。江戸時代に建てられた天守閣が現在も残る城は全国に12ありますが、そのうち最も標高の高い場所にある城がこの備中松山城で、天守閣は臥牛山の峰の一つ、小松山の山頂標高約430mに建てられています。
 備中松山城跡がある臥牛山には、南北に延びる尾根上に中世から近世にかけて城が築かれていて、それら全体が国の史跡に指定されています。史跡指定地は、臥牛山に8ヶ所点在しています。また、天守閣、二重櫓、三の平櫓東土塀は国の重要文化財(建造物)に指定されています。

備中松山城(高梁市)の続きを読む

歴史と観光拠点「苅田酒造」

57.jpg

 苅田酒造は宝暦8年(1758年)に創業。代表銘柄の「諸白」は江戸時代に書かれた「本朝食艦」の一説から取られたとされていわれ、250余年にわたって伝えられた伝統のお酒です。(現在は作られておりません。)苅田家は2013年12月、津山城下町最大の町家建築「苅田家住宅と酒造場」(市重要文化財)を津山市に寄付されました。今は津山市指定史跡です。母屋だけでも間口が10間半、奥行き9間あるそうです。国重要伝統的建造物群保存地区にある歴史と観光拠点として整備されて新しく生まれ変わるそうです。とても楽しみにしております。(2015年11月1日撮影)

歴史と観光拠点「苅田酒造」の続きを読む

旧津山扇形機関車庫とは

見開き合成.jpg

旧津山扇形機関車庫
 旧津山扇形機関車庫は延床面積2,527㎡、総工費は11万600円であった。機関車収容線数17は、梅小路機関車庫に次ぐ現存二番目の規模である。躯体は鉄筋コンクリート・フラットスラブ構造で、向かって右の低棟には道具置場、技工長室、修繕室、鍛治場が置かれ、高棟は第1から第4、中棟には第5から第17の機関車収容線が敷かれていた。
屋根高は低棟6,700mm、高棟8,450mm、中棟7,303mmで、第5線と第6線、第11線と第12線の間にはエキスパンションジョントがある。ジョイント部分で中棟は高棟に、高棟は低棟に乗りかかるように設計
されている。エキスパンの役割は温度によるコンクリートの伸縮や地震による揺れの違いを吸収し、巨大コンクリート建造物を崩壊から防ぐことにあると考えられる。背面が広いガラス窓で覆っているのは、黒い蒸気機関車と煤煙によって暗くなりがちな庫内に自然光を取り入れるためである。それが扇形機関車庫の特徴である。
 旧津山扇形機関車庫60ft転車台転車台桁は横枕木仕様でクーパー荷重E33、全長18,280mmの60ft下路プレートガーダ「G2-1」である。転車台は扇形機関車庫が建設される6年前の1930年、電動牽引機と共に設置された。現在の二輪式転車台電動牽引機は1954(昭和29)年に福島製作所が製造したものである。

旧津山扇形機関車庫とはの続きを読む

八出天満宮の梅の花

yaide3.jpg

2016年3月6日、3月10日に八出天満宮の梅の花を見に行って来ました。予てから一度、満開の梅の花が咲いた所を見てみたいと思っていました。梅の木の足元には可愛らしい水仙の花も咲いていました。この八出天満宮は広く美作地方一円の人々からは古来「学問の神」「書の神」として崇敬され、信仰を集めてきた全国の天満宮の中でも稀な縁起と最古に位置する起源を持つ由緒あるお宮です。軒先には沢山の合格祈願の絵馬がかかっていましたよ。

八出天満宮の梅の花の続きを読む

文化財めぐり(本源寺)

hongenji2.jpg

  2015年12月6日(日)津山郷土博物館友の会 第107回 文化財めぐり「森長継の生母 渓花院ゆかりの史跡探訪」があり、本源寺(森家墓所)を拝見してきました。
 本源寺(森家墓所)
 本源寺の由緒:山号は東海山、臨済宗東海派。元は足利尊氏が創建した神戸村の萬松山安国寺。森忠政の美作入国時に小田中に移転。慶長12年(1607)忠政夫人の於岩が没すると西今町の北方に埋葬され、ここへ再び安国寺を移転し龍雲寺と改称、森家から200石の寄進を受けて菩提所となり、元和年間に山号が東海と改められた。寛永11年(1634)に京都で急逝した忠政は大徳寺三玄院に葬られたが、津山の龍雲寺にも供養墓が建立された。天和3年(1683)忠政の50回忌に当たり、法名にちなみ本源寺と改称。(矢吹正則『津山誌』参照)

文化財めぐり(本源寺)の続きを読む

文化財めぐり(小田中 法源山 宗永寺)

soueiji4.jpg

 2015年12月6日(日)津山郷土博物館友の会 第107回 文化財めぐり「森長継の生母 渓花院ゆかりの史跡探訪」があり、宗永寺(本堂内・森家墓所)を拝見してきました。
 宗永寺の由緒:山号は法源山、臨済宗東海派。長継が生母・渓花院の供養のため創建。家臣の市村重政・各務元正を奉行として堂宇を建立させ、明暦2年(1656)落成。方丈・書院・庫裏・廊下・中門・外門など、いずれも美麗を極めたという。渓花院の住持・正伝を開祖とし、渓花院の法名にちなんで宗永寺と命名、寺領として150石を寄進。森家の改易後は徐々に衰退し、天保年間に火災に遭うなどして、伽羅は昔の規模をとどめていないが、幕末に田中諦堂が住職となり、堂宇の修繕に努めた。明治17年(1884)の時点で境内は東西19間(約34m)・南北49間(約88m)あり、現状よりも北に大きく広がっていた。現在の本堂はかつて観音堂で、33体の観音像のほか、渓花院をはじめとする森家一門の位牌を安置する。(矢吹正則『津山誌』ほか参照)(文:津山郷土博物館友の会 第107回 文化財めぐりより)

文化財めぐり(小田中 法源山 宗永寺)の続きを読む

油地蔵(勝央町 壽福山 東光寺)

aburasyoo3.jpg

油地蔵(岡山県指定重要文化財)
 字 石佛の土中より堀り出されたもので旧県道沿いに安座していたものを大正14年東光寺山門前に移したもの。花崗岩の上部を舟形におとし佛像を刻んでいる。右手には錫杖、左手に宝珠を持つ延命地蔵の相で重厚の感じの像容である。
 左に「庚暦二庚申二月二十九日亥午後」(1380年)右脇に願主円佛敬白の銘がある。油をかけると如何なる難病にも御利益があると云われその為、油地蔵と呼ばれている。
 県内外からの参拝者も多い。昭和34年1月13日、県の重要文化財として指定される。

油地蔵(勝央町 壽福山 東光寺)の続きを読む

西御殿跡(里公文)

nishi4.jpg

西御殿
 神代の十字路からも備前街道は県道に添うてはいるが間に田地をはさんだ左側の山裾の道であって此の道は柄尾谷池に差しかかって始めて右折して県道に吸収されて池畔を進めば、池土堤の右側に貴布祢神社の裏鳥居がある。
 鳥居の前をすぎて県道が右に曲がるあたりの左向うに「西御殿」がある。立派な石垣がめぐらされていて、正面の石段を登ればそこは広い屋敷跡「殉難碑」が建てられており、久米町の重要文化財に指定されている。

西御殿跡(里公文)の続きを読む

間山高福寺の由来(勝央町)

koufukuji5.jpg

間山(はしたやま)高福寺の由来
 開基は推古天皇の頃(592~628年)で聖徳太子によって、用明天皇紗勅願所として創建したと言われる。
 天平9年(737年)僧行基は当地を訪れ「上見てもまた下見ても天の川 中にそば立つはした山かな」と詠じてその景勝を称し、その後勅命を受けて、七間四面の金堂、五間四面の堂宇を建立して仏像を奉納するなどした。淳和天皇(820年代)の一時期この寺院内で国府の政務が行われるなどして繁栄を見たが、歳月を経て老朽化、衰微をたどりつつあった一条天皇の頃(986年~1011年)書写山の性空上人によって再興がはかられた。新たに山王七社を勧請、弁財天を祀り、数十のおよぶ僧院などを造り、東西に浴室を設け、山門を造営して金剛力士像を安置した。以前をしのぐ繁栄をもたらした。承久の(1221年)で後鳥羽上皇が隠岐島に配流の途次、本寺に参詣された。
 天正年間(1570年代)、三星城合戦の余波を受けて、大半が消失してしまった。(これについては、自然発火による火災説がある。)(2013年12月23日撮影)

間山高福寺の由来(勝央町)の続きを読む