黒見山 寶聚院 観音寺(美作市)
美作市にある観音寺は、別名もみじ寺と呼ばれ親しまれているお寺です。11月上旬にはもみじ祭りが開催され、写真や俳句コンテストなどが賑やかに行われます。境内には色とりどりのモミジが絵にも言われぬくらい美しく思わず写真を撮りたくなります。
(作東町指定天然記念物 観音寺の森)
東作誌によるとこのあたりは江見の郷のうちで山家五か村を称して「山家の庄」といったという。その景観を今も残しているのがこの森だそうです。(2014年11月16日取材の時の様子)
美作市にある観音寺は、別名もみじ寺と呼ばれ親しまれているお寺です。11月上旬にはもみじ祭りが開催され、写真や俳句コンテストなどが賑やかに行われます。境内には色とりどりのモミジが絵にも言われぬくらい美しく思わず写真を撮りたくなります。
(作東町指定天然記念物 観音寺の森)
東作誌によるとこのあたりは江見の郷のうちで山家五か村を称して「山家の庄」といったという。その景観を今も残しているのがこの森だそうです。(2014年11月16日取材の時の様子)
少林寺拳法創始者宗道臣開祖の経歴
1911(明治44)年2月、岡山県(現美作市)生まれ。
17歳の時、中国に渡り、日本民族の捨て石となって大陸を駆けめぐる。その間、縁あって嵩山少林寺の流れを汲む文太宗老師の知遇を得てその門に入り、各種の拳技を修得する。
ソ連軍政下の中国東北(満州)の地で敗戦を迎える。
敗戦直後の極限状況下で、人間の赤裸々な行動を目の当たりにし、法律も軍事も政治の在り方も、リーダーとなる「人の質」にあることを確信する。そして、真の平和を達成するためには、慈悲心と勇気と正義感の強い人間を育てる以外にないと決心する。
1947(昭和22)年10月、香川県多度津町において、力愛不二の"教え"と自己確立・自他共楽を旨とする"技法"を中心とした、社会に役立つ人づくりの教育システムを考案して、拳禅一如の「少林寺拳法」を創始、少林寺拳法師家となる。1980(昭和55)年5月、逝去。(文:美作市発行チラシより)
2019年7月6日に、湯郷にある大山あじさいロードを訪ねてきました。
記念碑に「市道大山線、総延長2,190m、工事期間:昭和61年着工 平成8年完成。平成10年から大山住民により新たな観光地を目指し、あじさいの植栽に着手、現植栽本数 約2,700株、本年大山あじさいロード事業完了を記念し、記念碑を建立する 平成27年9月吉日 大山部落」と書いてありました。 綺麗に咲いている色とりどりのあじさいの花を拝見して、大山部落の皆様の努力に感激しました。
2019年5月26日美作市の江見さん宅のバラ園に伺って来ました。
伺った日はとても暑い日でしたが、ご夫婦で汗だくで花たちのお世話をされていました。山の斜面を利用したイングリッシュガーデンは様々な花が咲き乱れていました。見ていて楽しいガーデンです。
墨に生きる 書・水墨画等思い出と感謝 阿部風木子
2018年11月23日に亡くなった阿部風木子(阿部正直)氏ですが、いつかお目にかかりたいと思いながら月日が経ってしまいました。ただ生前に掲載の許可だけは戴いていましたので掲載させて頂きました。生家から生前の風木子氏の事も伺って来ました。
岡山県美作市出身。大正12年生まれ。水墨画や書は、教育者だった父の影響で幼いころから始めた。雅号の「風木子」は、父(風木)の子だから風木子。
剣聖宮本武蔵は、この地岡山県美作市宮本において、父・平田無二斎と、主家新免家の妹お政の次男として天正12年3月(1854年)に生まれました。
武蔵の生家は、北を宮川で南を小童谷川で守り、30間(約60m)四方の強固な堀めぐらしていた、宮本の溝と呼ばれていました。山柴水明の山の丸い武蔵の里の構えは、地理的には山陽と山陰の重要な連絡路であった因播州街道に沿ってあり歴史的には中世、特に戦国時代には山陽と山陰の両勢力による略奪の地がこの旧大原町でありました。
武蔵の家系は代々十手術を伝えてきたので、当然武蔵も平和な今日では考えられない厳しい剣の教育を受けたものと思われ、幼少の頃から武術にたけており、13歳の時播州平福で新当流有馬喜兵衛に勝ってからそれ以降、剣の道一筋に練磨し、その間京都の一乗寺下り松での吉岡一門との戦いを始め、29歳で九州舟島において、佐々木小次郎に勝つまで生涯60余度の勝負に一度も負けたことがありません。
楢原駅(ならはらえき)は、岡山県美作市楢原上にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)姫新線の駅である。津山方面に向かって右側に単式ホーム1面1線をもつ地上駅(停留所)である。駅舎は設けられておらず、直接ホームに入る形になっている。
津山駅が管理の無人駅。かつては駅前商店にて乗車券(常備券)を発売する簡易委託駅であったが、2011年4月に簡易委託が廃止された。自動券売機は設置されていない。(2018年6月24日撮影)
武蔵生家跡
武蔵は天正12年(1584年)に生まれ、父を平田無二(無二斎)、祖父を平田将監といい、両人とも十手術の達人であった。こうした武術家の家に生まれ育った武蔵は幼少の頃から武術にたけており、13歳の時、播州平福で新当流有馬喜兵衛に勝ち、それ以降諸国を巡って剣の道一筋に練磨し、29歳で豊前国小倉船島(巌流島)での佐々木小次郎との決闘など、60余度の勝負をし一度も負けていない。武蔵は流儀を二天一流と称し、その兵法を五輪書、兵道鏡に残した。また、書・絵・彫刻・工芸を好み禅の修行を重ね[枯木にもずの図」等、今日重要美術品とされている数々の作品を残して、正保2年5月(1645年)、熊本の千葉城にて62歳で亡くなり弓削の里に葬られた。
昭和34年には、宅跡が「岡山県史跡」に指定された。
ここは「元屋敷」と云う地名で町内で最も大きい茅葺きの家である。
慶長5年(1600年)、武蔵が武者修行に出立した時、家の道具家の系図、十手(三つ)、すやりを姉おぎん夫婦に渡した。その後、元和9年(1623年)、おぎんの二男九郎兵衛景貞がここに居住し、武蔵家を相続した。
庭の池水はその時作られた。辺には樹齢400年のタラヨウと樹齢300年のウツギの古木と屋敷の入口の樹齢300年の栗の巨木とがあり、さすがに武蔵にゆかりの深い平尾家らしい趣がある。
(文:美作市看板より)
武蔵神社
武蔵生誕地碑前から因幡街道を200㍍上った右側、字天王山にある。 郷土の生んだ剣聖「宮本武蔵」」を祀る神社として、昭和46年(1971)4月、武蔵奉賛会の趣意に賛同した全国1300余名の人たちからの浄財530万円をもって建立した。
拝殿の正面上部の「武蔵神社」の額は、彫書芸術の創始者である彫無季謹作書のものである。また、社頭には、武蔵が好んだ唐の詩人白楽天の詩の一節「寒流帯月澄如鏡」を刻んだ「戦気の碑」が建てられている。