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取材記事内をタグ「大庄屋巡り」で検索した結果,34件の記事が見つかりました。

美作の大庄屋「土居家」(下田邑)

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土居家 土居七郎兵衛 西北条郡下田邑村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 土居氏は、伊予の河野家の末裔である。天正年間に毛利氏の武将であった土居四郎次郎が神楽尾城の守りとして入ってきたのが、田邑土居家の始まりと伝えられている。その子、孫右衛門が帰農した。七郎右衛門が寛永8年(1631)大庄屋に任命され、二男太郎右衛門が河辺村土居家、三男伊右衛門が田辺村土居家として分家し、ともに大庄屋を勤めた。

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美作の大庄屋巡り「香山家」(野介代)

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香山家 香山太郎兵衛 東南条郡野介代村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 香山氏は、播磨国揖保郡香山の地名によるという。康正2年(1456)山名氏の家臣となり、香山城主であった。羽柴秀吉に攻められて落城し、香山安正が美作に逃れ、高野本郷の中島隆重の婿となった。
 森藩によって大庄屋に任命され、貞享年間に川崎村から野介代村へ転居した。
大庄屋として
 貞享元年(1684)吉井川の大洪水があり、川崎村は大きな被害を受けた。翌年、森長成の命により、川崎村200余戸と川崎八幡神社高福寺を北方の丘陵や野介代村に移転した。香山太郎兵衛は、移転に反対する百姓を説得して、移転させ、丘陵の開墾に尽力した。
 元禄8年(1695)幕府は江戸の中野に犬小屋建設を森藩に命じた。その経費として特別な負担を申し出た大庄屋や大年寄の中に香山太郎兵衛の名がある。森藩改易の翌年、松平長矩が新しく津山10万石の領主となった。この時太郎兵衛は領民の代表として土居藤七と江戸へ行き祝意を表している。

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美作の大庄屋「田中家」(英田郡海内)

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田中家 田中久太夫 英田郡海内村 森藩 沼田藩
大庄屋まで
 田中氏は、三星城主後藤勝基の家臣田中信濃守が祖先であるという。その子次郎兵衛が海内村に帰農し、その子久太夫が森藩の大庄屋に任命された。享保15年(1730)英田郡など3郡1万4000石が上野沼田藩士岐領になると、再び、大庄屋に任命され、代々長兵衛を名乗った。
大庄屋として
 沼田藩は、海内村に陣屋を置いた。田中長兵衛は士分にとりたてられ、年貢の徴収・輸送にあたった。中庄屋として協力した山外野村の黒田家は薬草園経営のも関わっていたという。
 慶応2年(1866)改政一揆が起きると、沼田藩は、鯰村の隋縁寺など領内4ヶ寺に一揆との交渉を依頼、金4000両と米1500俵を一揆勢に渡すことで願書を撤回させた。とくに隋縁寺の僧侶日正上人の活躍があった。上人の墓は妙法寺(津山市西寺町)にある。大庄屋の田中長兵衛も一揆の鎮静化に尽力した。

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美作の大庄屋「福本家」

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福本善兵衛 久米北条郡坪井下村 森藩~幕府領 挙母藩(ころもはん)
大庄屋まで
 家伝によれば、福本家の先祖は原田氏である。原田行佐の二男政次が坪井村の笠森神社近くに移住した。政次は、亀山城落城のとき戦死した叔父の福本藤兵衛の跡を継ぐため福本に姓を変えたという。政次の孫小左衛門は、村内の比津免(ひずめ)に移住し、後に森藩の大庄屋に任命された。小左衛門の孫文左衛門が、内藤藩の大庄屋に任命され、代々勤めた。
大庄屋として
 森忠政が、初めて領国を巡回した時小左衛門と父助右衛門が召されて、岩屋城攻めの話をしたという『大庄屋由緒調』。文化10年(1813)12月2日伊能忠敬の測量隊が止宿した。

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美作の大庄屋巡り「中西家」

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 中西家 中西孫右衛門 東北条郡小中原村 森藩~松平藩 関宿藩
大庄屋まで
 中西氏は、戦国末期、津山市勝北町西中にあった中西城の城主であった。中西玄蕃頭は尼子氏に従っていたが、のちに矢筈城の草刈氏に従った。草刈氏と姻戚関係を持ち、重臣として活躍し、草刈重継が毛利氏に従い安芸へ退去したとき、加茂郷に帰農したという。孫右衛門が森藩により大庄屋に任命された。

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美作の大庄屋巡り「木村家」

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木村家 木村治右衛門 勝南郡勝間田村 森藩~甲府領 完宿藩
大庄屋まで
 木村氏の出自は諸説ある。その一つは毛利氏の家臣龍門帯刀が帰農し、その子孫与左右衛門が木村を称したといわれるものである。
大庄屋として
 森藩の助成で、河原の多い勝間田の低地の大規模な開田工事が行われたとき、下山和十郎、木村治右衛門は、現在の新町、当時中河原と呼ばれた荒地を開発し、新田、井堰を造成した。その功績によって下山家は津山藩の本陣に、木村治右衛門は大庄屋に任命され、木村家は勝山藩、松江藩の本陣、脇本陣を勤めた。

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美作の大庄屋巡り「福島家 福島善兵衛」

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福島善兵衛 大庭郡目木村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 福島氏は、もともとは鎌倉幕府のもとで、伊豆福島郷に居を構え北條高時(1303-1333)代に故えあって四国土州七條公に仕え、土州安芸郡、讃州三野郡託間塩生構城・豫洲国分寺金甲山居たと伝えられる。享徳3(1454)年長宗我部元影により落城となる。一族を連れて安芸を経由して、美作の国勝山高田城の三浦氏を頼り作州の地につき、三浦氏に仕えたことに始まる。・・・19代一信(伊織介)の時。
文亀年間(1501ー1503)高田城三浦貞連の元で、山名右近亮の守護する篠向城を陥落させ城代として入城した。以来、21代玄蕃允 一盛(-1526)、22代玄蕃允 満則(-1548)、23代玄蕃 盛親(一則)-1584)75年間 篠向城を守護した。(23代玄蕃一則を目木構の祖とする)
天正4年(1576年)毛利・宇喜多連合軍により勝山高田城主三浦が滅ぶ。福島・金田が守護していた篠向城も陥落し、城から逃れていたが、宇喜多の家臣・江原氏に仕えた。福島盛親(玄蕃一則)の子・七郎右衛門は秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従い帰国後高麗犬を米来神社に寄進した。城主江原は釜山で病没し、その後関ケ原の戦いで西軍が負け宇喜多は改易され、福島、金田も帰農した。
江戸時代に入り、森藩により、大庄屋となる。

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美作の大庄屋巡り「井上家」

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井上家 井上勘三郎 勝北郡福井村 土浦藩
 家伝によれば、源頼朝に仕えた井上十郎左衛門義吉の後裔井上蔵人正清が播磨国乃井野から移住して岩黒城を築いた。一族は後藤勝基に仕え、天正7年(1579)三星城合戦で戦死した者もいた。正清の子孫が、福井村帰農したという。延享4年(1747)、土浦藩は吉野郡、勝北郡の1万9千石余を領し、天明2年(1782)大庄屋として近長村甲田猪吉、福井村井上勘三郎を任命した。
 大庄屋としての記録はなく不明である。福井村正伝寺、八幡神社の延享元年の棟札に、庄屋井上五郎兵衛の名がある。
 福井村は、広戸川が形成した低地と、低丘陵の村である。森藩改易後、幕府領となり、延享4年(1747)常陸土浦領となった。

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美作の大庄屋巡り「中島家」

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中島家 中島多右衛門 西北条郡香々美中村 松平藩
大庄屋まで
 香々美中村中島氏は、延享4年(1747)大庄屋岸三郎左衛門が職務を召し上げられたことにより、寛永2年(1749)姻戚関係のあった一宮村中島家から、多右衛門が香々美触の大庄屋に任命されて岸氏の屋敷に入り、跡を受け継いだ。
大庄屋として
 ペリー再来航のとき、中島多右衛門は、農夫77人を率いて江戸に赴いた。また、私塾「休嫌学舎」を開き、塾の指導者として鞍懸寅二郎を招いた。寅二郎は後に津山藩に登用され、藩論・尊皇攘夷を主導した。

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美作の大庄屋巡り「岸家」

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岸家 岸新兵衛 西北条郡香々美中村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 岸氏の先祖は久米南町下籾にある竜王山城主、岸備前守氏秀であるという。氏秀は伯耆尾高城主山名氏重の二男で天文年間に尼子氏に属し城を築いたが、元禄元年浦上宗景は尼子氏の衰退を見て、竜王山城を攻撃し氏秀は戦死し落城した。後裔の新兵衛が森藩の大庄屋に任命された。
大庄屋として
 津山城主天守閣の主柱に用いた桂の巨材は、大町村の宗重から岸新兵衛によって切り出されたと伝えられているが、父三郎左衛門が寄進したともいわれる。切り株から成長した柱が現存する。新兵衛は藩命を受け慶安元年(1648)布原台地の開拓、それに伴う用水路作りに貢献した。また、伯耆往来の宿駅に着手し、円通寺の客殿を寄進したといわれている。延享4年(1747)三郎左衛門は年貢米の不足から多額の負債を負い大庄屋を免ぜられた。

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