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青長山 大法寺(大字久米川南)

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 当山は慶長の昔、伯耆大山の人、理性が仏道修行のため諸國行脚の途次、此の地を通り一小堂で休憩した。此の堂は現在大法寺のある場所にあったもので、本尊は弘法大師であった。理性は何心なく堂内を見まわすに、兵乱の影響を受けて、本来仏法弘道の霊場であるはずのものが時には野武士の棲み家ともなってひどく荒らされていた。理性は此の有様を見て大いになげき、是非共之を再興しなければならぬと固く心に誓い、村の人達に相談をもちかけ、自分も此の地に仮住居して滞在することとした。
 最初の程は半信半疑であった土地の人達も道心堅固な理性に敬服して段々と協力者がふえて遂に一宇の寺院を建立するに到った。即ち慶長19(1614)年、時の美作國の領主森忠政の允許を得て「静長山大宝寺」と号し真言宗に属した。

 これが当山の起源である。山号は今は「青長山」であるけれども、此の頃は「静長山」であって、いつ変わったものであるかについては未だ何等の文章にも接していない。しかし寺号の「大宝寺」が「大法寺」と文字の変ったことについては、慶長19年から百六十年ばかり後の安永4(1775)年8月朔日の津山(松平)藩の日記に大畧次の様な記録がある。
 久米北条郡錦織村の大宝寺は近年大久保村と村付きが変り、寺号は大宝寺と書いていたものが大法寺と変り、今後は美作國久米北条郡大久保村大法寺と認める様に変更の届けが出たのでお届けします。
 安永乙未七月 大熊勘解由
  小野日向守様
  伊藤志摩守様
 大熊勘解由は津山藩の家老であり、小野日向守・伊藤志摩守は幕府の役人である。これによって、大法寺の村付が従来錦織村だったものが大久保村と変り、寺号の大宝寺が大法寺と文字の変更が此の頃おこなわれたことがわかる。但し、村付きの変更は寺の移転ではなく村の境界線の変更があったものであろう。(文:久米町史下巻より抜粋)

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正面入り口

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本堂

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本堂の彫り物

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鐘楼                             境内

(2014年11月30日取材)