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「江戸一目図屏風」の実物を期間限定で展示!

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 江戸一目図屏風(岡山県指定重要文化財)文化6年(1809)鍬形蕙斎(紹真)六曲一隻 館蔵
 文化6年(1809)、江戸の全景を詳細に描いた景観図で、墨田川東岸の上空から西方の地上を見下ろした鳥観図となっている。
 画面中央に江戸城、左に江戸湾、下に墨田川を配置。江戸城の周囲には大名屋敷が並び、外堀の外には入り組んだ街路や蛇行する用水路に沿って、民家や社寺がびっしりと描かれている。また、浅草寺、向島、新吉原など著名な江戸の名所が250ヵ所以上も描き込まれ、さらに、画面上方の遠景には秩父や丹沢の山々がかすむようにあらわされ、その中央には霊峰富士がひときわ大きく描かれている。
 当時より、江戸は人口100万を超える世界でも指折りの大都市であった。本図は西洋画の技法を駆使しながら、19世紀初頭の江戸の繁栄を描いた肉筆画として、近世景観図の傑作と評価されている。(2012年3月14日取材時の写真引用


鍬形蕙斎が生きた江戸

 鍬形蕙斎は明和元年(1764)に江戸で生まれました。この頃、江戸では武家文化人・地方出身者・江戸っ子が一丸となって多彩な江戸文化を創出します。鍬形蕙斎が江戸で育った時期には、浮世絵や狂歌が流行し、新興の出版資本蔦屋重三郎や須原屋などが黄表紙・江戸切絵図など多種多様の本を出版しました。
 鍬形蕙斎は13歳の頃に浮世絵師北尾重政に入門したと考えられており、15歳の頃にはすでに黄表紙の挿絵を描いています。その後、北尾政美と号して狂歌で有名な大田南畝や蘭学にもくわしい森島中良などとの交流を深めていきました。(文:「江戸一目図屏風実物展示ー鍬形蕙斎と江戸ー」津山藩御抱絵師の鍬形蕙斎より)(2025年4月5日撮影)

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津山市昭和町の国道沿いの「安黒一枝翁之碑」

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 津山市大篠にある、最後の大庄屋安黒家、一族から出た安黒一枝は、津山市の吉井川右岸地域の開発に尽力した。津山市昭和町の国道沿いに「安黒一枝翁之碑」が建てられ顕彰されています。


 安黒一枝の日記は、明治32年から昭和38年まで日記帳48冊と大学ノート23冊、その他の綴り14冊が残されている。これらは故小谷善守氏の遺族が文化財センターへ寄贈された資料の中に含まれていたものである。生前故人の日記を紹介して欲しいとの要請を受け、今回、第1回目として昭和5年~昭和9年までの日記から大谷区画整理組合に関する記述を取り上げる。
 安黒一枝は明治12年東北条郡大篠村に安黒盛人の長男として生まれる。父盛人は、明治18年東北条郡第3戸長役場の戸長となり、明治24年、高田村の村長に就任する。その後、津山中央銀行監査役などを努めた。
 一枝は、明治43年大篠産業組合を創立し、常務理事となる。その後、妹尾銀行、津山貯蓄銀行、中国信託会社、作備銀行、山陽銀行、美作木材酒造、津山商事などの役員を歴任する。閑谷黌では大原孫三郎と同窓である。
大谷土地区画整理組合
 昭和4年津山町から津山市に移行する中で、久山、安尾、井汲、高岡、橋本、田口、西川 柴田、平井らと毎日のように熟談を重ね区画整理組合を運営して行った。
 最初に「川向土地」の話が出るのは大正15年。次に昭和6~8年にかけて準備が進められ、昭和8年大谷地区土地区画整理組合が創設。昭和9年から本格的に事業が開始される。現在の大谷地区を当時は「川向」と呼んでいた。
(文:年報津山弥生の里16号 大谷土地区画事業の一側面~安黒一枝の日記から(1)~ 岩本えり子)

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極楽山 光厳寺で不動護摩供(ふどうごまく)の体験

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 津山市西寺町にある「極楽山 光厳寺」で、毎月28日の午前10時より、お参りの方々の諸願成就を祈る不動祈願護摩供があり、諸願成就を祈ってきました。当日午前中は御開帳し、ご本尊様のお姿を拝することができ貴重な体験をしました。
 極楽山 光厳寺は、慶長19年(西暦1614年)豪商蔵合氏の発願により、院庄清眼寺に在りし秀照上人が津山の現在地に移り開基されたお寺です。蔵合氏の一建立による本堂は築城当時のものといわれています。ご本尊様は五尺有余の木造不動明王で温和なお顔立ちにて非常に古い時代に作られたものです。また、極楽山光厳寺は、高野山真言宗美作八十八ケ所霊場の80番霊場でもあます。
 「2024城西花まつり巡り」に伺った時ご住職にお誘いいただき、体験をさせていただきました。

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津山まなびの鉄道館「扇形こどもまつり」 2024

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 2024年5月4日(晴天)津山市大谷にある「津山まなびの鉄道館」を訪ねてきました。
久しぶりの訪問でしたが、岡山と出雲市を結ぶクリーム色の車体に赤のラインの特急「やくも」は私にとっても、なつかしく思い出のある列車です。


キハ181形気動車
 非電化急勾配路線への投入を目的に1968(昭和43)年に開発された特急用気動車である。DML30系エンジンを搭載し1972(昭和47)年までに158両製造された。最高時速120kmを誇る。中央西線の「しなの」でデビューし、伯備線「やくも」、奥羽線「つばさ」、大阪・山陰間「はまかぜ」、土讃線「南風」業務など全国で活躍した。2012(平成24)年には15両がミャンマー国鉄に譲渡された。キハ181-12は2011(平成23)年3まで京都総合運転所に配属され、東海道・山陽。播但・山陰線で特急「はまかぜ」に使用されていた。

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三日月藩乃井野陣屋物見櫓

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 建物は旧陣屋で現存する唯一の建築遺構です。(三日月町指定有形文化財建造物平成14年指定)
 三日月藩の創建当初には無かったことがわかっていますが、建物の創建年代を明確にする史料は発見されていません。江戸時代後期(寛政三年1791)の古文書に「御物見」の記述がありますので、1700年代の後半には建立されていたと考えられています。
 櫓(矢倉)とは、敵の襲来を見知したり、矢を射たりして防御性を高める軍事目的の建物でした。
しかし、この建物は、堀川に大きな出格子を付け、二階には床を設けた書院的な造りで、藩の接待などに使われていました。また、二階からは眼下の武家屋敷や街道が見渡せる絶好の位置で、堀端での武芸の試合を藩主が謁見した記録も残っており、江戸後半期の平和な時代の性格が良く表れています。
 明治17年に三日月町の広業小学校に移築され、明治44年に村役場や公民館として再び移築されました。二度の移築にもかかわらず、屋根瓦や建物の一階の柱を除いた主要な構造材、出格子、階段など江戸時代の部材がよく残っていました。この建物は、これらの部材を解体し、現在の位置に復元したものです。(平成14年3月復元工事完成)(文:現地案内板より転載)(佐用町許可済み)

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三日月藩租「森長俊の人となり」

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 三日月藩祖森長俊が生まれたのは慶安二年(1649)年九月八日で、津山藩二代藩主森内記長継の第八子(五男)として、作州鶴山城中で誕生しました。


 三日月藩祖の森長俊は非常に人情に厚かった人で、外寛内勇、諸侯の中でも特にすぐれた人材でした。
 長俊は、兄の伯耆守長武によって藩主になることができたので、生涯その恩を忘れず、長俊の邸は目白にありましたが、たびたび長武の関口邸をたづね慰問しました。長武には多くの弟があったが、長武が鉄山と号して関口邸に隠居してからは、皆疎遠になりました。しかし長俊だけはそうでなかったので、長武はその心をほめ、「自分がもしもっと早くに、長俊のこの気持ちを知っていたら五万石を与えたであろうに、惜しいことである」といったといわれています。
 父の内記長継は、隠居してから後、竜口邸から芝邸に移って夫人と同居し、長継の死後、夫人は長清院と名のりました。この人は、長俊には義母にあたります。しかし夫人が長俊を愛すること実子のようで、長俊もたびたび訪れて夫人を崇敬し、夫人は珍しいよい品物があると長俊に与え、夫人に事があるときは、子は多かったが、いつも長俊を特に呼んで相談し、長俊はその芝邸で住居しました。

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日岡八幡神社(三日月)

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日岡八幡神社略記
 日岡八幡神社は平安時代後冷泉天皇の夭喜元年(1053年)山城国石清水八幡宮の別宮として祭られた。当時は末社も多く社人77人、神馬数十頭を抱える大社で宮の東に馬場もあり神殿四町八反を有し供物を栽培した。祭礼は毎年陰暦8月15日に挙行され数十人の神官が袖を連らね数十ヶ村の氏子が参集する中を神事祭礼が進められまた重陽角力があり盛大をきわめたといわれている。
 安土桃山時代豊臣秀吉荘園制度を廃し郷村制を布すや社田を召し上げ氏子も八ヶ村とすべてが縮小された。江戸時代寛永元年(1624年)開墾山焼きの火が延焼し本殿その他古文書にいたるまで全焼した。当時の神主船曳光高は乃井野大庄屋井上十郎兵衛とはかり村々の庄屋氏子とともに再建に努力し明暦2年(1656年)焼失御32年にして本殿を造築8月15日遷宮した。これが現在の神殿である。元禄10年(1697年)森対馬守長俊津山から乃井野に移封されるやわけても当社を信仰し拝殿、石の鳥居、神門、その他多くのものを寄進し修復にも力をそそいだ。明治7年(1874年)郷社となり昭和15年(1940年)県社にされたが終戦後は社格廃止となり現在に至る。

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播州平福神吉氏本陣別邸跡庭園「現 遠入邸」

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播州平福神吉氏本陣別邸跡庭園 「現,遠入邸」
 池泉観賞池の現存する「播州平福神吉氏本陣別邸跡庭園」は兵庫県佐用町平福・岡山県美作市大原古町・鳥取県智頭町の三県を通る「因幡街道」に面した三つの宿場の一つ、平福宿の中程に「門長屋」を持ち、本邸は大庄屋・代官を務めた田住氏の下で台頭した神吉氏の下屋敷で「平福本陣別邸庭園」とし機能していたと考えられています。
 当別邸書院は棟札(むねふだ)に「正徳二年建立(1712)」と記されていることから、建立から約300有余年になります。書院に付随する庭園も、同時期の江戸時代初期に作庭されたと思われます。庭園は利神山山頂の利神山城を背景にした『池泉観賞式庭園』です。
 瓢箪形の池泉には枯滝を配し、中央出島を蓬莱山(ほうらいさん)としています。池泉に石橋を二基、木橋を一基架け、邸内を巡ることも出来る庭園様式です。地割(ちわり)(平面構成)や護岸石組の配石がよく、庭園内の何処からでも優れた景観が鑑賞できる様に配慮された庭園構成と言えます。また、要所に立石を用いた石組や力強い枯滝石組など江戸時代初期の特徴をよく備えており、この時代この地域を代表する庭園と評価されています。
兵庫県庭園史家 西 桂

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出雲街道 宿場名の語源由来

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出雲街道 宿場名の語源由来を四日市観光ボランティアガイドの村田三郎様から頂きましたのでご紹介させていただきます。(上の写真は津山ボランティアガイドの末澤敏夫さんと所有の出雲街道絵地図)

出雲街道 宿場名の語源由来 2023.02.12 村田三郎

1.序
出雲街道は、播磨国姫路(兵庫県姫路市)を始点として、中国山地を横断し、出雲国松江(島根県松江市)に至る街道のことを指す。古代は都(大和)と出雲とを結ぶ最短距離の官道で、国司が中央とを往復する道であった。江戸時代は、参勤交代の道として、津山、勝山、広瀬、松江などの各藩主が利用し、出雲(松江)の藩主・松平侯(越前松平家)が参勤交代で通ったことから「出雲街道」と呼ばれるようになった。姫路から松江までは、53里208km、25か所の宿場があった。出雲街道の特徴というべきは、出雲大社(祭神大国主大神)・美保神社(祭神事代主神、三穂津姫命)を祀る「参詣・信仰の道」であり、また、たたら製鉄製品の全国流通を支えた「鉄の道」でもあった。

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中山神社の台所 厨(クリヤ)神社

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御祭神 宇氣母智命,譽田別尊,言代主神
御神徳 五穀豊穣, 料理・調理
由緒 
 本神社は和銅6年4月に弓削村池尻に御鎮座になり、弓削庄の二宮大明神と崇められ、弓削庄三社の一である。
 延宝5年9月、領主森長成の命により現在地に遷座した。『作陽誌』によると往古中山神社の御饌神として15座30名の宮座による特殊神事があった。本神社の氏子は旧弓削庄27か村であったが、現在では上弓削・下弓削・西山寺の3か村である。
 明治2年厨谷神社と称し、明治6年村社に列格して厨神社と改称。同14年郷社に列格。同44年神饌幣帛料供進神社に指定せられた。(文:岡山県神社庁HPより転載)(2023年2月8日撮影)

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