取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「宿場町」で検索した結果,29件の記事が見つかりました。

新町の地蔵踊(鏡野町指定無形民俗文化財)

2023-7-22jizoumatsuri22.jpg

 鏡野町香々美(かがみ)地区の新町(しんまち)は旧倉吉街道の宿場町として知られ、今も往時の面影を残しています。そんな新町の地蔵堂の前で、毎年7月23日の夜、やぐらを建てて踊る行事があります。地蔵盆と呼ばれる年中行事の一種で現在は23日に最も近い土曜日に行われています。
 地蔵踊の起源は、天正年間(1573~91)といわれますが、地蔵堂の改築を伝える棟札の最も古いものは1707年(宝永4)で無病息災、厄除け、安産に霊験あらたかといわれ、今日まで踊り継がれてきました。(看板より転載)

新町の地蔵踊(鏡野町指定無形民俗文化財)の続きを読む

「国指定史跡」利神城跡(りかんじょうあと)(因幡街道宿場町平福)

2023-5-20rikan6.jpg

 利神城跡は、ここ佐用町平福にある中世から江戸初期にかけての城跡で、現在見られるような石垣造りの姿になったのは、慶長5(1600)年のころになります。
 播磨52万石を領し、姫路城主となった池田輝政は、領内に六つの支城を築いたとされ、その一つが利神城であり、城主となった輝政の甥、由之が山頂の城と麓の館を大改修したと伝えられています。
 城は周囲に総延長700m近くの石垣を巡らし、山頂に天守を築きあげた姿は「雲突城」とも呼ばれています。
 元和元(1615)年には池田輝政の六男、輝興が作用郡2万5千石を領して入城。このころ城下町の整備も進み、のちの"宿場町平福"の繁栄をもととなったといわれています。
 しかし寛永8(1631)年、輝興が赤穂へ移り、領地が山崎藩(宍粟市)に組み込まれると城主不在として廃城になったと伝えられます。(文:現地案内板より転載)

「国指定史跡」利神城跡(りかんじょうあと)(因幡街道宿場町平福)の続きを読む

宮本武蔵初決闘の地と金倉の六地蔵

2023-5-20musashi_1st11.jpg

 武蔵は天正12年(1584)、父・平田無仁斎(むにさい)、母・於政(おまさ)の間に生まれたが、間もなく生母と死別、無仁斎は利神(りかん)城主・別所林治(しげはる)の娘、率子(よしこ)を後妻に迎える。この義母に育てられた武蔵は、7才の時父と死別、母率子は平福に帰り田住政久(たずみまさひさ)の後妻となる。幼少の武蔵は、母恋しさのあまり、しばしば義母の居る平福を訪ねる。9才のころ正蓮庵(しょうれんあん)の僧・道林坊(どうりんぼう)にあずけられ、その訓育を受ける。道林坊の弟・長九郎(ちょうくろう)により剣を習うや、その力は著しく伸長する。武蔵13才の時、運命的な初決闘が、ここ平福の町外れ金倉橋(かなくらばし)のたもとで行われる。新当流(しんとうりゅう)の達人、有馬喜兵衛(ありまきへい)なる兵法者の、決闘を誘う挑発的な高札(こうさつ)に応じ、木刀で対峙(たいじ)するや、一刀のもとに喜兵衛を打ち倒し、いずこともなく旅立っていくこととなる。出奔(しゅっぽん)の一説には、佐用群一の古社、佐用都比賣(さよつひめ)神社に参籠、武運を祈願の後、諸国修行に旅立ったとされる。爾来(じらい)、生涯60数回に及ぶ決闘に、不敗の剣豪として名を成していくことになる。

宮本武蔵初決闘の地と金倉の六地蔵の続きを読む

美作の大庄屋「大寺家」(美作市)

mimasaka-syoya2-10.jpg

大寺家 大寺三郎左衛門 英田郡土居村 森藩
大庄屋まで
 大寺氏は、鎌倉時代の末から英田保の地頭だった安東氏の一族であるという。安東系譜によれば、寛永年間(1624~1644)に大寺伝右衛門が、大庄屋を勤めた。
大庄屋として
 寛文4年(1664)伝右衛門の孫三郎左衛門は不都合があったとして大庄屋を罷免され、家屋・所有地をすべて没収されたといわれる。
 その翌年に山外野村の安東三郎兵衛が大庄屋に任命された。

美作の大庄屋「大寺家」(美作市)の続きを読む

つながる「出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会 万能乢コース(1)

2021-11-21doisyku9.jpg

 はじめに
 出雲街道とは、播磨の国、姫路に端を発し、出雲の国、松江に至る約215Kmの古道を言う。また、一説によれば松江の先、出雲大社とも言われている。
 大和朝廷が、武力で全国を平定としたのに対し、出雲は神話に登場するが如く、平和裡に国譲りが行われ、朝廷より優遇され、鉄の産出も始まり、街道は繁栄してきました。
 街道は人、物、文化を運ぶ役目を果たし、その重要性は五街道(東海・中仙・甲州・日光・奥洲)に匹敵し、同等の街道として発展してきました。
 その後の街道は時代と共に、道筋は変遷、消失を繰り返していますが、現存している道で2コース有る場合は、合理性が高いか、最も古い道を採用しています。
 今回の「つながる出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会は、特別企画 第4弾として、万能乢より江見までを、「勝間田宿の会」を主催者にして、「土居宿を後世にのこす会」と「勝山宿の会」とで共催して開催いたします。また、万能乢コースと別に、古代より開けた「杉坂峠コース」がありますが、このコースは又の機会に譲り、参勤交代が始まった江戸中期(慶長9年頃)より、土居宿が設置され「万能乢コース」が開発されたので、今回は同コースを歩きます。(文:特別企画(第4弾)出雲街道(Ⅱ)を歩こう会 主催:出雲街道 勝間田宿の会、共催:土居宿を後世にのこす会・勝山宿の会案内より)

つながる「出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会 万能乢コース(1)の続きを読む

旧出雲街道「土居宿 西惣門」(美作市)

doisyuku10.jpg

復元された門(門の高さ:6m50cm、幅:7m88cm)
 この惣門は、慶長(1596~1614)年間に幕府による出雲街道の整備にあたり、ここに美作七駅の1つとして土居宿駅を定めた際、東と西の出入り口に関門を設け、朝夕門番によって開閉し、国境の警備のために建築されたもので、明治2年の関所廃止令により取り壊されたものを平成13年3月復元建築したものです。宿場町の両端に惣門を備えていたのは、全国的にもまれな事例といわれています。

旧出雲街道「土居宿 西惣門」(美作市)の続きを読む

出雲街道を歩こう会「坪井宿」

2020tsuboi8.jpg

 2020年11月8日特別企画(第2弾)「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会(第6区)」に参加してきました。久米ふれあい学習館をバスで出発、岩屋城麓に着き簡単な説明を受け徒歩出発しました。約4時間ほどかけて無事久米ふれあい学習館に戻ってきました。
 出雲街道とは、播磨の国 姫路を発し、出雲の国 松江に至る約215kmの古道を言う。また、終点は松江を過ぎ、出雲大社とも言われている。
 今回は「つながる出雲街道(東部Ⅱ)」を歩こう会より、特別企画 第2弾として、大井西の会の応援を得て、共催で開催されました。津山市・中北上~同・宮尾間7.8km(実質9.0km)

出雲街道を歩こう会「坪井宿」の続きを読む

出雲街道、勝間田宿「下山家古文書展」

shimoyama-h20.jpg

 令和2年10月27日(火)~11月8日(日)まで、勝央美術文学館町民ギャラリー1で「出雲街道勝間田宿 下山家古文書展」が開催されています。

はじめに
 出雲街道は、古代には畿内と出雲を結ぶ道として発展し、人々や文物が行きかう交通の要路でした。江戸時代になると参勤交代のため街道が整備され、休憩や宿泊の拠点として整備されていきました。
 勝間田は参勤交代の宿場町として整備され、美作七宿のひとつとして栄えていました。宿場内には、諸藩の参勤交代にあたって、大名や供の者が泊まった旅舎が二つあり、おもに津山藩主などが宿泊した下山本陣と、松江・勝山藩主などが宿泊した木村本陣がありました。今回の展示では、下山本陣と本陣を営んでいた下山家に焦点を当て、関連の古文書を展示いたします。

出雲街道、勝間田宿「下山家古文書展」の続きを読む

美作の大庄屋「安東家」(美作市)

doisyuku2-24-1.jpg

安東家 安東弥右衛門 英田郡土居村 森藩 幕府領
大庄屋まで
 安東氏の遠祖は、英田保の地頭であった安東千代一丸である。彼の名が、康永4年(1345)の足利直義の下知状に見える。千代一丸は、比丘尼城(美作市山口)の城主であったといわれる。
 寛文4年(1664)大寺三郎左衛門が大庄屋を罷免された翌年、山外野村の安東三郎兵衛が土居村に移り、大庄屋に任命されたという。
大庄屋として
 土居宿の本陣は、当初妹尾氏が代々勤めていたが、後に安東氏に代わった。安東家は大庄屋も兼務して、土居宿の運営に深く関わった。大庄屋をやめた後も、幕末まで本陣の経営に当り、参勤交代の手配や宿場の維持に尽力した。
 文化10年12月19日伊能忠敬の測量隊が本陣に止宿した。


美作の大庄屋「安東家」(美作市)の続きを読む

日本一の石の鳥居と蒜山 郷原宿探訪(真庭市)

2020-8-22goubara31.jpg

郷原漆器のふるさと 郷原(ごうばら)宿(岡山県指定重要無形民俗文化財)
  郷原宿(真庭市蒜山西茅部)は、美作・伯耆両国を結び、大山参詣や牛馬市へ向かう人々が盛んに行き交った「大山みち」の宿場町で、戦前まで盛んに作られていた「郷原漆器」の産地集落として広く知られています。
 郷原漆器は主に栗の木を使い、輪切りにした生木をろくろで挽く独特な製法で椀や皿を作る実用的な製品です。その始まりは明徳4年(1393)など諸説がありますが、江戸時代には漆器の産地として広く知られ、地元勝山藩でも特産品として着目されています。
 技術改善や購買組合の設立で、大正時代末に生産量は最高に達しましたが、戦争による物資統制などで衰退、昭和20年(1945)の終戦ののち、まもなく伝統的な漆器生産は一度終焉を迎えました。
 そうしたなか、昭和時代末から始まった漆器復興の取り組みは、平成4年(1992)の「郷原漆器生産振興会」設立、岡山県からの郷土伝統的工芸品への指定、同8年の拠点施設「郷原漆器の館」(蒜山上福田)建設につながり、同18年には生産振興会の保持する製作技術が民俗技術として県下で初めて重要無形民俗文化財の指定を受けるなど高く評価され、蒜山地域に新たな活力を生み、さまざまな可能性の広がりを見せつつあります。
真庭市教育委員会 (文:現地看板より)(2020年8月22日撮影)(大山みちを歩こう会第6区

日本一の石の鳥居と蒜山 郷原宿探訪(真庭市)の続きを読む