「国指定史跡」利神城跡(りかんじょうあと)(因幡街道宿場町平福)

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 利神城跡は、ここ佐用町平福にある中世から江戸初期にかけての城跡で、現在見られるような石垣造りの姿になったのは、慶長5(1600)年のころになります。
 播磨52万石を領し、姫路城主となった池田輝政は、領内に六つの支城を築いたとされ、その一つが利神城であり、城主となった輝政の甥、由之が山頂の城と麓の館を大改修したと伝えられています。
 城は周囲に総延長700m近くの石垣を巡らし、山頂に天守を築きあげた姿は「雲突城」とも呼ばれています。
 元和元(1615)年には池田輝政の六男、輝興が作用郡2万5千石を領して入城。このころ城下町の整備も進み、のちの"宿場町平福"の繁栄をもととなったといわれています。
 しかし寛永8(1631)年、輝興が赤穂へ移り、領地が山崎藩(宍粟市)に組み込まれると城主不在として廃城になったと伝えられます。(文:現地案内板より転載)

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「道の駅宿場町ひらふく」上にある展望台の案内板

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 赤松一族から最北端の防備の任をうけた別所敦範(あつのり)により貞和(じょうわ)5年(1349)に築城。その後、別所一族が約200年間この地を治めるが、天正6年(1578)秀吉の中国攻めにからみ山中鹿之助に攻められ落城。その後、姫路城主池田輝政(てるまさ)の甥(おい)、由之(よしゆき)により慶長5年(1600)から約5年の年月をかけて行った大改修で現在の城となる。標高373mの利神山(りかんざん)の山頂に三層の天守丸を配した連郭式(れんかくしき)山城は、東西300m、南北500mにも及ぶ総石垣造りの広大な山城で、別名を雲突城(くもつきじょう)とも呼ばれた。これを見た輝政は、余りにも壮大であるため天守破却の命を下し由之(よしゆき)は退去させられる。寛永8年(1631)最後の城主、輝興(てるおき)が赤穂へ転封。これにより平福は、城下町としての歴史を閉じ鳥取藩の本陣を置く宿場町として栄えることとなる。(文:現地案内板より転載)

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平福の町                    利神城跡

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現地案内板

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利神城跡

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平福御殿屋敷跡
 利神城の改修に当たり、利神山の麓に新たに整備されたとされる城主の居館を中心とした平福藩の中枢部。東側に利神山、西側を河川に挟まれ南北にには石塁を配し、堅牢な城館となっています。
 武家屋敷跡や外的の侵攻を防ぐ堀の遺構が見つかっており、特に石垣は一部が当時のまま現存しています。南側の大手門は石塁と塀の高さがおよそ6m、堀幅は13mと推定されており、平福藩2万5千石を領した池田氏の権勢を偲ばせています。(文:現地案内板より転載)