美作の大庄屋「安東家」(美作市)

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安東家 安東弥右衛門 英田郡土居村 森藩 幕府領
大庄屋まで
 安東氏の遠祖は、英田保の地頭であった安東千代一丸である。彼の名が、康永4年(1345)の足利直義の下知状に見える。千代一丸は、比丘尼城(美作市山口)の城主であったといわれる。
 寛文4年(1664)大寺三郎左衛門が大庄屋を罷免された翌年、山外野村の安東三郎兵衛が土居村に移り、大庄屋に任命されたという。
大庄屋として
 土居宿の本陣は、当初妹尾氏が代々勤めていたが、後に安東氏に代わった。安東家は大庄屋も兼務して、土居宿の運営に深く関わった。大庄屋をやめた後も、幕末まで本陣の経営に当り、参勤交代の手配や宿場の維持に尽力した。
 文化10年12月19日伊能忠敬の測量隊が本陣に止宿した。


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土居の一里塚
 江戸幕府によって、江戸日本橋を起点に、一里ごとに塚がつくられた。
 慶長9年(1604)に藩主森忠政のとき、出雲往来に36町ごとに街道の両側につくられたその一つである。
 北塚には黒松、南塚には榎が植えられて、一里塚の形式を完備していた。
 松は戦時中献木のため切られた榎も戦後切られたので、昭和47年(1972)榎と松を植えた。
 なお、昭和46年一里塚の石標を建立した。(昭和47年4月20日指定 作東町教育委員会)


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所在地
 慶応元年(1865)自刃した4人の攘夷派武士の墓が土居小学校横にあり「土居の四ッ塚」と言われている。

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屋敷・墓地
 安東家の屋敷は、宿場町にあった。広い本陣跡には、橋を模した渡り廊下が残っている。敷地内には他家2軒が建っている。墓地は宿場から100mほど離れた山麓にある。菩提寺は顕本法華宗本典寺(美作市土居)である。

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子孫 
 安東桂治郎の長子正虎は勤王の志士と交わり、明治になり陸軍会計軍吏補、司法省の官吏となった。正虎の弟、安東鉄馬は長州軍として禁門の変に参加し、鷹司邸で戦死した。
 子孫は岡山市に住んでいる。(文:『美作の大庄屋~故地をたずねる~』より)(2020年2月24日撮影)