2025 橋本さん宅のバラの花達
2025年5月26日、津山市内にある橋本さん宅へバラの花を拝見しにやってきました。
少し前までは、オープンガーデンを行っておられましたが今は止められています。それでも訪れるお馴染みさんは多いそうです。イングリッシュガーデンのような造りのお庭で、緑の中に真っ赤なバラが印象的です。バラの花の蕾も沢山ありましたので、まだまだバラの花が楽しめそうです。それに今年は多肉腫が増えていました。
2025年5月26日、津山市内にある橋本さん宅へバラの花を拝見しにやってきました。
少し前までは、オープンガーデンを行っておられましたが今は止められています。それでも訪れるお馴染みさんは多いそうです。イングリッシュガーデンのような造りのお庭で、緑の中に真っ赤なバラが印象的です。バラの花の蕾も沢山ありましたので、まだまだバラの花が楽しめそうです。それに今年は多肉腫が増えていました。
2024年11月7日・8日 津山市河面にある墨池山 清龍寺さんの四国八十八ヶ所霊場巡拝に参加させていただきました。今回は第80番 国分寺~第88番 大窪寺までの9ヶ寺を(一泊二日)で巡ってきました。清龍寺さんを朝8:00に出発して四国八十八ケ所霊場巡拝の旅へ。
順路は、1日目は、第80番 国分寺 ⇒ 第81番 白峯寺 ⇒五色台(昼食)⇒第82番 根香寺 ⇒ 第83番 一宮寺 ⇒第84番 八島寺 ⇒ 庵治温泉(泊) ⇒ 第85番 八栗寺 ⇒ 第86番 志度寺 ⇒ 津田の松原(昼食) ⇒ 第87番 長尾寺 ⇒ 第88番 大窪寺 ⇒ 附中湖PA ⇒ 高梁SA ⇒ 津山でした。
森家はもともと清和天皇からの流れを汲む氏族といわれ、相模国森郷を領したのち森氏を名乗ったと伝えられています。森家が歴史上に現れるようになるのは16世紀、森可成のころからで、可成はのちに織田信長に仕え美濃国金山を領することになります。
また森家は著名な人物も多く輩出しており、この中でも先の森可成のほか森長可や森長定(蘭丸)などは特に有名な歴史上の人物としてよく知られています。
三日月藩森家にはこのような氏族の後裔(こうえい)として森忠政が開いた津山藩森家(現岡山県津山市)を本家とし、その分流として成立します。慶安二(1649)年、後の三日月藩租である森長俊は二代津山藩主森長継の子として生まれ、延宝四(1676)年には藩主森長武に領内の一万五千石を分け与えられ津山新田藩を開きます。
しかし元禄十(1697)年、本家である津山藩森家が改易となったときに森長俊は播磨三日月の地に移され、ここに三日月藩が始まることになります。
三日月藩の領地は現在の三日月町、佐用町、上月町、南光町、新宮町、山崎町の一部にまたがり、佐用群内では四十の村、新宮では七の村、穴粟郡では十八の村の計六十五村を数え、石高は津山の頃と同じ一万五千石でした。
後の三代俊春、四代俊韶のころには、今の岡山県と兵庫県内に四万石ちかくを預かり五万四千四百三十石を有したこともあったようです。
さて、この長俊の後三日月藩の藩主は二代長記、三代俊春、四代俊韶、五代快温、六代長義、七代長篤、八代長国、九代俊滋と続くことになります。
藩主の説話もいくつか残っており、初代長俊は長身で鼻筋が高く眼光の鋭い人であったといわれ、いまでも菩提寺(ぼだいじ)である高蔵寺(こうぞうじ)にはその面影を伝える木造が残されています。二代長記は氏神の日岡八幡宮(ひおかはちまんぐう)、菩提寺の高蔵寺の増築を行っています。三代俊春は学問を好み、四代俊韶も能書であったと伝えられ、また五代の快温も学問を好み私金でを投じて藩校廣業館(こうぎょうかん)を設立し、学問・武芸に力を入れたとされます。
この後三日月藩は九代の俊滋のときには明治維新(めいじいしん)を迎え、さらに明治四年の廃藩置県(はいはんちけん)で藩知事(はんちじ)を免ぜられたことをもって三日月藩九代174年の治世は終わりを告げることとなりました。(文:兵庫県佐用郡三日月町発行『森家一万五千石の陣屋 三日月藩乃井野陣屋跡』より転載)(撮影2023年5月18日・20日)(佐用町許可済み)
2023年11月4日~12月17日まで津山郷土博物館3階展示室にて、「令和5年度津山郷土博物館特別展ノスタルジアー少し昔の津山ー」が開催されました。
津山郷土博物館で収集、把握している津山地域関連の古い写真約70点をいくつかのテーマに分けてパネル展示し、少し昔の津山の姿をご紹介します。
上記写真に写っている津山駅(現津山口駅)は、岡山-津山を結ぶ中国鉄道の駅として、明治31年(1898)に開業し、大正12年(1923)に、現津山駅の開業に伴い津山口駅となりました。津山町内池田貸自動車部の自動車(1918年型、Over land Model 90)が写っています。駅名が「津山駅」となっており、大正8年~12年の写真でしょう。(文:津山郷土博物館特別展「ノスタルジア ー少し昔の津山ー」より)(2023年11月19日撮影)
2025年3月1日から津山市内で「津山城下町雛めぐり」が、2025年3月1日(土) 〜 2025年4月3日(木)まで行われています。中心市街地では「おかみさんの雛まつり」、城西地区では「城西雛めぐり」、城東地区では「城東雛めぐり」となっており各エリアで開催されています。
ここ和蘭堂では、格子越しにお内裏様やおひな様、官女などが個性あふれる宴会をしていて「こういった飾り方もいいなぁ~」と楽しく拝見させていただきました。
岡山県北エリアで開催された「森の芸術祭 晴れの国・岡山」(2024年9月28日~11月24日開催)
奈義町の屋内ゲートボール場「すぱーく奈義」に展示されていたレアンドロ・エルリッヒの作品《まっさかさまの自然》が、特別に2025年1月10日~2月2日まで延長公開されているとのことで、1月13日に奈義町の屋内ゲートボール場「すぱーく奈義」へ出かけてきました。
屋内に入るとすぐ森に囲まれた中に吊り橋が掛けられていて、下をのぞくと、空の上から森を見ているような不思議な感じがしました。実際は、天井から吊るされた木々が下の鏡に映りこみ、周りには本物の木々が植えられていました。
2024年12月21日(土)13:30~、ボランティアガイド歴史セミナー「美和山古墳群現地見学・説明会」がありました。講師は、郷土史家の橋本惣司さんです。
卑弥呼邪馬台国(弥生時代末期)から、古墳時代に入って生まれたヤマト王権初期のころに築かれたと言われる美和山古墳群の現地見学・説明会。古墳の時代背景と立地、古墳の構造、葺石・ハニワの話、埋葬施設と埋葬者、副葬品、王位継承の儀式など、又、謎の4世紀と言われる古墳時代前期の興味ある話を聞くことができました。また、このセミナーは、二宮地区のボランティアガイドを養成するためのものだそうです。
津山市大篠にある、最後の大庄屋安黒家、一族から出た安黒一枝は、津山市の吉井川右岸地域の開発に尽力した。津山市昭和町の国道沿いに「安黒一枝翁之碑」が建てられ顕彰されています。
安黒一枝の日記は、明治32年から昭和38年まで日記帳48冊と大学ノート23冊、その他の綴り14冊が残されている。これらは故小谷善守氏の遺族が文化財センターへ寄贈された資料の中に含まれていたものである。生前故人の日記を紹介して欲しいとの要請を受け、今回、第1回目として昭和5年~昭和9年までの日記から大谷区画整理組合に関する記述を取り上げる。
安黒一枝は明治12年東北条郡大篠村に安黒盛人の長男として生まれる。父盛人は、明治18年東北条郡第3戸長役場の戸長となり、明治24年、高田村の村長に就任する。その後、津山中央銀行監査役などを努めた。
一枝は、明治43年大篠産業組合を創立し、常務理事となる。その後、妹尾銀行、津山貯蓄銀行、中国信託会社、作備銀行、山陽銀行、美作木材酒造、津山商事などの役員を歴任する。閑谷黌では大原孫三郎と同窓である。
大谷土地区画整理組合
昭和4年津山町から津山市に移行する中で、久山、安尾、井汲、高岡、橋本、田口、西川 柴田、平井らと毎日のように熟談を重ね区画整理組合を運営して行った。
最初に「川向土地」の話が出るのは大正15年。次に昭和6~8年にかけて準備が進められ、昭和8年大谷地区土地区画整理組合が創設。昭和9年から本格的に事業が開始される。現在の大谷地区を当時は「川向」と呼んでいた。
(文:年報津山弥生の里16号 大谷土地区画事業の一側面~安黒一枝の日記から(1)~ 岩本えり子)
新畑毘沙門堂(加茂郷88ヶ所霊場第61番札所)は、加茂町中原新畑(にいばた)地内にあり、加茂川の東西橋を西に越えて坂を上がった山すその新畑公会堂の横にあります。本尊は毘沙門天です。木造瓦葺き、白壁、道路そばにあります。
(先達は木元林造さん)(2022年11月10日撮影)
2024年8月4日(日)「第46回 津山納涼ごんごまつり in 吉井川」が津山市吉井川河川敷周辺で執り行われ、県下最大級の打ち上げ花火が夜空を彩りました。
当日はとても暑い日となりましたが、花火直前に雨が降り、花火のころには暑さも和らぎ過ごしやすくなり、花火の観覧にはもってこいでした。河川敷ではライブやステージイベントが盛りだくさんで、大勢の方が集まり身動きが取れないほどの人込みでした。また、今年は偶然出会った「エイコ美容室」社長のご厚意でビルの屋上で観覧させていただきました。手振れの多い画像ですが花火の様子を載せてみます。