
2025 前期企画展「生誕200年 箕作秋坪と久原洪哉」

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企画展「津山洋学の名品展」

洋学資料館令和4年度前期企画展「津山洋学の名品展」

令和7年度前期企画展「生誕200年 箕作秋坪 と 久原洪哉」が、2025年3月8日(土) 〜 2025年9月21日(日)、津山洋学資料館企画展示室にて開催されています。そこで、津山が誇るスーパーエリートのお二人はどんな人物かをじっくり見て参りましたのでご紹介してみます。
(全文:津山洋学資料館展示パネルより転載)(2025年6月6日撮影)
津山藩医箕作阮甫の養子である箕作秋坪は、幕府によりヨーロッパ諸国に派遣され、幕末の外交交渉に活躍します。また明治維新後は東京に英学塾である三叉学舎を開き、新思想団体である明六社に参加するなど文明開化に尽くしました。
一方の久原洪哉も津山藩医久原玄順の養子となり久原家を継ぎます。洪哉は華岡流の外科を学び明治3年(1870)に津山藩主松平 慶倫(よしとも)夫人の乳癌の摘出手術を成功させるなど活躍をしています。
奇しくもこの二人は文政8年(1825)生まれということで生誕200年にあたります。今回の企画展は同年代でともに幕末維新期に活躍したこの二人についてご紹介します。
菊池秋坪、箕作阮甫の養子となる
箕作秋坪(みつくりしゅうへい)は現在の真庭市下砦部(しもあざえ)にあった学校「教諭所」で学監 (副責任者)をしていた菊池文理の二男として生まれました。22歳の時、箕作阮甫のもとで蘭学を学ぶことになります。その年、阮甫の養子であった省吾が亡くなったこともあり、見込まれた秋坪は阮甫の養子になることを勧められ、嘉永2年(1849)に緒方洪庵の適塾に入門することになります。阮甫と洪庵は宇田川玄真のもとでともに学んだ兄弟弟子であったので、信頼して秋坪を託したのかもしれません。適塾での修業後、嘉永4年(1851) 阮甫の三女つねと結婚し正式に箕作家の養子に入ることになりました。
その後29才で幕府の蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)、35才の 時には阮甫が教授職を勤めた幕府の蕃書調所で教授方手伝を勤めています。
適塾の門人帳(緒方洪庵が開いた適塾の門人録。嘉永2年(1849)に秋坪が入門したことがわかります。この時は正式に阮甫の養子 となっていなかったので、「菊池」姓になっていますが、横に「箕作阮甫の養子 として」とあり、秋坪が阮甫の養子になることは周知の事実であったようです。)
ペリー来航絵図(秋坪が調査を命じられたペリー艦隊の様子を描いた絵図。この時秋坪はサラトガの乗組員ゴールズボロー大尉に接触して名刺とタバコを手に入れています。この絵巻の最初にその名刺とタバコが貼られています。)
秋坪が見た黒船とヨーロッパ歴訪
嘉永6年(1853)にペリーが浦賀に来航した際には津山藩の命により、艦隊の様子を探るため秋坪は現地に派遣されています。翌年、再度来航した際も同様に津山藩により現地へ派遣されました。この時秋坪は来航したアメリカ人と接触し、名刺とタバコを手に入れています。
また、文久元年(1861)幕府は締結した修好通商条約にある開港・開市の延期交渉のためのヨーロッパへの使節団を派遣します。秋坪は翻訳方兼医師として随行員に選ばれ、6カ国を巡りま した。また、慶応2年(1866)には幕府による樺太(からふと)(サハリン)の国境画定交渉のための交渉団にも選ばれ、ロシアへ渡航することになります。こうして秋坪はヨーロッパをその目で見る機会を得ることになりました。
明治維新後の秋坪
明治維新後は公職を退き、明治元年(1868)、江戸にある津山藩の浜町の屋敷(現在の東京都中 央区日本橋蛎殻町)の一角を借りて「三叉学舎(さんさがくしゃ)」 という英学塾を開き、平沼淑郎(ひらぬまよしろう)・騏一郎(きいちろう)兄弟・原敬(はらたかし)・東郷平八郎(とうごうへいはちろう)など後進の育成を行いました。 また、明治6年(1873)には森有礼が主導して作られた学術結社である明六社(めいろくしゃ)にも参加しています。機関誌である『明六雑誌』に秋坪は「教育談」という論文を寄稿しており、女子教育の必要性を説いています。
その後、明治12年(1879) には国立科学博 物館の前身である教育博物館の館長に、18年には図書館長を勤めます。 翌年その両職を辞職しますが、同年12月3日、腸チフスのため63歳でその生涯を終えることになりました。
難波洪哉、津山藩医久原家を継ぐ
久原家はもともと津山藩主森家の家臣でした。甫雲良賢は医学を学び延宝5年(1677)幕府医官西玄甫からオランダ流の外科医術の免許状を与えられています。森家が改易の後、宝永5年(1708)松平家に藩医として召し抱えられ、以後代々藩医を勤めました。
一方洪哉は現在の鏡野町百谷の医師、難波周造の長男として生まれました。天保14年(1843)には京へ出て、西洋医学や蘭学を学びます。そのころ、久原家の跡継ぎで同い年の宗哲も京や大坂で遊学の最中で、ここで二人は面識ができ、深く交流することになったようです。
宗哲は嘉永5年(1852)病のため亡くなってしまいます。その際、宗哲は父玄順(宗甫)へ親友の洪哉と妹を結婚させ、婿養子として久原家を継がせるよう遺言を託しました。
こうして洪哉は久原家を継ぎ、津山藩医を勤めることとなります。久原家を継ぐと大坂で華岡流外科を修業し、家業の外科を学んでいます。
現在の三叉学舎跡周辺 久原洪哉の生家跡
藩医洪哉の活躍
藩医となると洪哉は長州戦争に従軍するなど多忙な時期を過ごしますが、その中で明治3年(1870)最後の津山藩主松平慶倫夫人の儀姫の乳癌の摘出手術を執刀し成功させています。
また、慶倫が明治4年に病で亡くなる際には、同じ藩医であった宇田川興斎と共に、側で治療を行い、慶倫の病状の変化と処方した薬などを記録した容体書が残っています。
この年、廃藩置県が行われ、洪哉は藩医の任務を解かれますが、その後も地域医療の充実のために尽力しています。コレラが流行した際には、私財をなげうって予防薬を用意し、貧しい人々に配っています。二男が開業の後は一線を退き、明治29年(1896)、病気のため71歳で亡くなりました。
ウィリアム・ウィリス
幕末に来日した英国人医師。明治2年(1869)東京の医学校兼病院に招かれ、学生の指導及び診察にあたりました。同年12月には鹿児島医学校に招かれることになります。洪哉等により津山藩主夫人の乳癌に関する治療方法の意見を求められたのはその直前の頃と思われます。
洪哉の妻せき
明治3年(1870)、華岡流外科を心得た洪哉の執刀で、患部である片方の乳房を切除する手術が行われました。結果は成功。儀姫(のりひめ)から治療のお礼として洪哉の妻せきに打掛が贈られました。
久原家伝来の打掛
久原家伝来の打掛
共に文政8年(1825)に生まれ、幕末から明治にかけて活躍した二人ですが、それぞれの子どもたちも各分野で業績をあげています。
秋坪の子どもには、イギリスへ留学するも若くして亡くなった奎吾、ケンブリッジ大学を首席で卒業し、東京・京都の両帝国大学総長、文部大臣を歴任した数学者の菊池大麓、アメリカで海洋動物学を学び真珠養殖に貢献した箕作佳吉、東京帝国大学教授を勤めた西洋史学者の箕作元八などがいます。
一方、洪哉の子どもには、アメリカへ留学し、東京大学理学部教授、京都帝国大学総長を務め、理論有機化学の草分けとなった久原躬弦と、郷土津山で医学の発展に尽力した茂良の兄弟がいます。
箕作奎吾(みつくりけいご)嘉永5年(1852)年~明治4年(1871)
奎吾は、嘉永5年(1852)、秋坪の長男として生まれました。11歳頃から英語を習い始めたといわれ、13歳で弟大麓とともに開成所(東京大学の前身)の「英学稽古人世話心得」となります。
次いで15歳で開成所の句読師となり、同年幕府が派遣する12人のイギリス留学生の一人に選ばれて大麓と共に渡英しました。留学生一行は、ロンドンのユニバーシティ・カレッジスクールに入学し、1年4カ月ばかり滞在しますが、幕府の崩壊により帰国を余儀なくされます。
明治維新後は、政府に登用され、大学校(開成所の後進)の大助教、小博士となりますが、程なく辞任し、父秋坪の開いた私塾三叉学舎で教鞭をとりました。ところが、明治4年(1871)、墨田川で遊泳中に過って溺死します。享年わずか20歳でした。
菊池大麓(きくちだいろく)1855(安政2)年~1917(大正6)年
大麓は安政2年(1855)に秋坪の二男で、父の実家である菊池家を嗣ぎました。幼少から幕府の開成所で英語を学び、わずか10歳で「英学稽古人世話心得」となって年上の生徒に英語を教えていたとわれています。12歳で兄奎吾とともに、英国へ留学しますが、幕府の崩壊により志半ばで英国を離れることとなりました。
帰国後、大学南校に出仕していた大麓は16歳で明治政府から再度イギリス留学を命じられます。ロンドン大学とケンブリッジ大学で学位を得て23歳で帰国すると、東京大学日本人初の数学教授に就任。理学部長や総長、京都帝国大学総長などを歴任し、明治34年(1901)には桂内閣の文部大臣も勤めました。そして、大正6年(1917)63年の生涯を終えます。
箕作佳吉(みつくりかきち)安政4年(1857)~明治42年(1909)
佳吉は安政4(1857)年に秋坪の三男として生まれました。緒方洪庵や福沢諭吉の慶應義塾に学び、16歳で大学南校に入学。その翌年、南校の教師ハウスの帰国に同行してアメリカに渡りました。
現地の高校を経て、21歳でエール大学に入学。動物学を専攻し、卒業後はさらにジョンズ・ホプキンス大学で研究を続けました。25歳で帰国すると東京大学理学部の講師となり、後、日本人で最初の動物学の教授に就任しました。
三崎の臨界実験所の建設に尽力して初代所長にしたほか、日本における近代的な動物学研究の基礎を築きました。ミツクリザメやミツクリエビなど、佳吉にちなんで名づけられた生物もたくさんいます。
明治42(1909)年、53歳で逝去すると、アメリカの学界からも「日本は一人の偉人を失った」との声が寄せられました。
箕作元八(みつくりげんぱち)1862(文久2)年~1919(大正8)年
元八は文久2年(1862)、秋坪の四男として生まれました。秋坪の私塾・三叉学舎で学んだのち、東京英語学校に入学し、卒業後は東京大学理学部に進学。そして明治19年(1866)25歳でドイツへ留学しました。
当初は動物学を研究するつもりでしたが、視力が低下して顕微鏡を使う研究を続けることが難しくなり、歴史学に転向したのでした。
留学を終えて帰国すると、高等師範学校教授、次いで第一高等学校の教授に就任。38歳で再びドイツ、フランスへ留学し、日本へ戻ると東京大学の教授になりました。
大正8年(1919)に脳溢血のため58歳で急逝するまで多くの歴史学書を刊行しました。中でも晩年に刊行した『仏蘭西大革命史』は、日本で最初の学術的なフランス革命史として高く評価されています。
久原躬弦(くはらみつる)安政2年(1855)~大正8年(1919)
躬弦は洪哉の長男として安政2年(1855)津山で生まれました。14歳の時、東京へ出て秋坪の三叉学舎で学び、翌年には津山藩の貢進生として大学南校へ入学します。東京大学卒業後、明治12年(1879)アメリカへ留学しジョンズ・ホプキンズ大学、ついでエール大学で学び、帰国後は東京大学理学部教授、ついで第一中学校教諭、同校長などを勤めました。
明治30年(1897)に京都帝国大学が発足し理学部が設置されると翌31年には教授として赴任。明治45年には長に就任しました。躬弦は理論有機化学研究の草分け的存在で有機化学反応機構を立体化学的に論じ、一学風を確立したと言われています。
その後、大正8年(1919)慢性気管支炎を患い現役教授のまま63歳でこの世を去りました。
久原茂良(くはらしげよし) 安政5年(1858)~昭和2年(1927)
茂良は洪哉の次男として安政5年(1858)誕生しました。明治11年(1878)医学を志し東京大学医学部に入学。卒業後も東京へ留まり、順天堂佐藤病院で臨床研究をするかたわら壬申義塾でドイツ語を学んでいます。
明治19年(1886)郷里へ帰り二階町の自宅で開業し、医師としての久原家を継ぐことになりました。開業後は明治39年(1906)苫田郡医師会が結成されると初代会長に就任しています。
大正8年(1919)西寺町大円寺の清田寂坦住職が津山施療院を開設し、貧困にあえぐ人々を無料で診断する事業を始めると進んで協力し、医長として無料奉仕を行いました。この津山施療院は現在も「津山広済寮」として存続しています。津山の医療発展に尽力した茂良は昭和2年(1927)68歳でなくなりました。
貧しい人々の救済に協力