史跡 大谷・定古墳群(真庭市)
2021年5月12日「第1回さららバス研修 古道をたずねる」北房方面~多和山峠~の研修に参加してきました。大谷1号墳遺物見学の様子を記しておきたいと思い組んでみました。
真庭市上中津井の地では7世紀に入ってから、定東塚・定西塚・定北・大谷1号・定5号・定4号という6基の横穴式石室の方墳が次々と築かれました。これらを総称して大谷(おおや)・定(さだ)古墳群といいます。
6基の各古墳はいずれも、石垣状の列石を有する段構造の方墳であることを大きな共通点としており、技術的に一連の系譜上にあることを示しています。
出土遺物をみても、大谷1号墳の環頭大刀や定東塚古墳の全製品に代表される豪奢な副葬品などから、大谷・定古墳群の被葬者がこの地域を治めていただけの首長にとどまらない、かなり広域に影響を持つ特殊な立場の人物であったことが十分に考えられます。
7世紀代という、この時期の古墳が特定の地域に集中し、連綿と築かれるというありかたは西日本でも大変珍しく、そのことから大谷・定古墳群は国の史跡に指定された。真庭市教育委員会(文:現地案内板より)
途中に立ち寄った伊勢国亀山領陣屋跡
備中松山藩主の石川総慶(ふさよし)が延享元年(1744)に亀山(三重県亀山市)へ移ったとき、北房町のうち、上中津井、下中津井、上平田、下平田の四ヵ村と、有漢町のうち垣、長代、川関、上村、中村、下村の六ヵ村、賀陽町のうち竹井、岩村、黒土の計十三ヵ村一万石は亀山藩の飛び領地となった。
亀山藩は幕末のころ特にタバコの栽培を奨励し「なかつい刻(きざみ)」として関西から四国へ販路を広げて藩の財政を潤し中津井の町も大いに栄えた。
いまに残る「鰤市(ぶりいち)」には近郷、近在からの人出でにぎわい三千本を超えるブリが売り買いされたという。
陣屋跡は、代官所が置かれたところで、明治四年(1871)の廃藩置県まで、実に百二十七年間続いた。
現在ここには領界を示す石柱が残っている。石柱は備中松山城下と美作国を結ぶ街道の乢山峠(多和山峠)にあったものを後に移した。
モミの木は亀山市の市木で、亀山ライオンズクラブと 高梁ライオンズクラブが友好縁組を記念して、昭和六十二年十二月一日植樹したものである。平成九年十月二十二日 真庭市教育委員会(文:現地看板より転載)
なかつい陣屋跡
大谷1号墳へと進むと、駐車場の隅に立派なトイレがあり、そこで役場の人が待っていてくれました。
ツツジが満開の中を奥へと進みます。
途中には句碑が並んでいました。 大谷1号墳
7世紀後半築造の、3段の墳丘と前面に2段の基壇をもつ5段積みという全国的にも例のない方墳で、東西で22.7m、南北で16.2m、高さは1段目から墳頂まで8mという規模。大和政権と深い関わりのあった高位の人物のものと考えられる。
史跡 大谷・定古墳群の案内板
石室内部
大谷1号墳の石垣
資料館(北房ふるさとセンター)
中世の鍛冶炉:この鍛冶炉は谷尻(赤茂地区)遺跡から出土したもので、鉄素材をこの炉の中で熱し、鎌(かま)や、鍬などの鉄器具を造っていたと考えられています。
大谷1号墳出土の陶棺 大谷1号墳の説明
大谷1号墳の出土品の斧状鉄製品 金銅装双龍環頭大刀
箕作(菊池)秋坪(1825~1886) 菊池大麓(1855~1917)
箕作阮甫の娘婿
箕作(菊池)秋坪の家系